三原康裕 #シューズデザイナー
ー育った福岡ではどんなことをされていましたか?
福岡では僕は主にサーフィン、夜のクラブ、打ち込みでエクスペリメンタルな音楽を作っていたり、そしていわゆる古着のリメイク。まあとにかく遊んでいましたよ。美大に行こうと決めたのは高校3年生ぐらいかな? 親に嘘つかれて面白い場所があるからついてきなさいって言われて行ったら美大の予備校。もう入学することが決まってて、ありゃりゃって感じ。
ー地元で充実した生活をしていたのに、浪人してまで東京に行こうと思ったのはなぜだったんでしょうか?
正直、浪人したときにやめようかなと思ったんだけど、やっぱそれはね、親の血なんだよね。美大の予備校に行ったからじゃないけど、なんとなくアートで食べていきたいってぼんやりとは思ってたんだよね。
一浪して二浪目が決定したとき、俺もどこでもいいかなと思ったの。ある時ね、福岡に残ろうと思ってるって母ちゃんに言ったの。「福岡におってもね、ムーブメントおきらんけんね」って言われてさ。うちの母ちゃんの悔しさがそこでわかったんだよね。僕が東京で美大に行くって爺ちゃんに言ったんだよ。爺ちゃんは死ぬ直前だった。死ぬ間際の人間が「芸術なんかやるやつは乞食になるんだからそんなの行かせん!」って。それを爺ちゃんから言われて母ちゃん、大変だっただろうなと思ったんだよね。「頑張っていきんしゃい」の一言の重みに気が付いたんだよね。そこからは遊ばず真面目に受験勉強やったよ。なんとか多摩美に合格したんだよね。
ーその後、多摩美で靴に出会うんですよね。
美大って日本中からアートやデザインが好きな人が集まる場所でしょ? それこそいろんな意味で面白かったけど、この4年間に何かをチャレンジし続けなければいけないと思ってね。変な話、学校で何かを学ぼうという気持ちだけは一切なかったんだよ。それよりも4年間の間に自立しなきゃいけないという気持ちの方が大きかった。なぜかというとバブルが崩壊して大人が作っていた学歴社会が消えて就職氷河期。就職ができないから何か自分で作って形にしていかなければって無我夢中だったのはあるね。その頃はファッションで食べていこうとは思ってなかった。アートで食べていきたいけど、画廊の世界には興味がない。日本でのアートが古典的に感じていた。海を渡ればダミアン・ハーストやチャップマン・ブラザーズが出てきたばっかりで、世の中をアートで騒がせてる。アートで食べていくのは大変だろうなとかいろいろと無駄に脳みそを使ってたんだよね。
それでロンドンに行ったついでにパリに行ってみたの。ルーブルに行ったらファッションショーをやっててね。その時インビテーションという言葉もわかんない。入り口で「Give me ticket.」って(笑)。 フランス人に「Non」って言われて相手にされない。そんなことしていると優しい人が出てきて入れたんだよね。そこで初めてファッションショーを見た。ロメオジリ。一番後ろで見てて、すごいな~って思うじゃん。終わったら次のショーもある。そこで一日中、入れてくれ入れてくれってやってたんだよね。最後にシャネルのショーがあったから、それは絶対見たいなって思って。勝手に入ってやろうって思ってさ。人の後ろとかに隠れてついていくんだけど、第1関門、第2関門までは行けるんだけど第3関門で追い出される。それをずっと繰り返していたんだよ。そうしたら同じように日本人で捕まって追い出されている人がいたんだよね。忘れないけど、MA1に革パン、エンジニアブーツを履いてちょっとパンキッシュ日本人。味濃いめの人がいるな~って。結局シャネルのショーは見られなかったから、セーヌ川の近くにあるクイックっていうマクドナルドみたいなものがあるんだけど、そこに入ったらさ、その兄ちゃんがいて。トライベンティの中川君って人だったんだ。話しかけたらさ、「俺ファッションデザインやってる」って言うわけよ。「俺ファッションショーであれな、女の子のモデルを両脇に連れてデザイナーが出てくるやん、あれやりたいねん」って言ってた(笑)。すげえいいテンションだなって。中川君が「俺ほんとは画家なんよ、画家で食っていけないから洋服やるねん。」って言ってて、そこで21歳の子供ながらに洋服って食えるんだなって思ったんだよね。それも僕の人生には少なからず影響しているのかな。俺たちが子供のときはやっぱファッションデザイナーって女々しい世界だなと思ってたから、どっかで。「ファッションデザイナーになります」って言うとおまえ恥ずかしいなと言われるような感じがあった。でもふとしたときに何か自分の中でもちょっとずついろんなものが変わってきていることに気づく。東京に来ただけじゃなくて、ヨーロッパに行ってみて、今まで自分の中で結論づけてたこともすごく変わってきてたから。
ー何を作るべきか、を自らに問いた結果は如何でしたか?
何を一生の課題にしていくかを考えたら、人と芸術を調和させたいっていう課題が自分の中で大きかったんですね。どっかで嫌だったのは、美術館に行って絵を触ろうとすると怒られるじゃない? なんか人と芸術って距離があって調和しない、見物人をいっぱい作れば価値があるようになってしまっているんだと思った。見ている人が、これがどういう作品かということよりもおめでたいものを見る感じになってた。人と芸術っていう課題の中でずっと考えたとき、ファッションの人たちを見ていると、人が使うものを作るっていうのはすごくいいことだなと思った。すごく距離が近くて、洋服屋さんに入って触れるわけだし、着ることもできる。人が何も考えずに芸術を日常的に触る。そう考えたときに靴っていうものが僕にはしっくりきたんだよね。あと、靴は人と芸術を調和させるという意味でそのアイコンとしてわかりやすかったのもある。だけど、実は大きかったのは自分には作り方が全くわからなかったこと。いろんな意味でモノ作りのプロセスはプラモデルを作ってるみたいに完成図に向かうことができたんだけど靴だけはわかんない。なんでこうなるのか全くわからかなった。そこがね、すごく楽しくて。やっと独学でやれるものを見つけられたかもって思ったんです。
ーわからないことが次に繋がっていったんですね。
今までは独学でいろいろやろうと思っても誰かが何かを教えてくれる。だから全てを大学に入って捨てようと思ってた。何が美しくて綺麗で汚いものなのか。自分という存在は世の中が作ってくれたわけで、世の中が生み出した価値観の中に自分がどっぷり浸かってる限り、それは本当の自分の価値観じゃないんじゃないかって疑ってね。世の中、全てを恨んだ時期があった。芸術の考え方とか哲学とかそういうことも、いつのまにか自分の言葉で言ってるけれど、それは実は自分の考えじゃないんじゃないかっていうパラドックスが始まっちゃった。若者にありがちな(笑)。自分に対する疑心暗鬼で自分が思ってる感覚も全て信じられなくなる。そのとき靴を見たら、これは本当にわかんないって思った。落ちてる靴を拾ってハサミで分解してみたんだけど、全くわからない。木型なんて知らない。イエローページで靴の工場を見つけて行ってみると木型がある。大きな声では言えないけど、木型を少々拝借してまた考える。自分でやり続けていると見えてくる景色がある。自分で発明したと思っても、それは業界では当たり前のことだったりする。一喜一憂することが一番面白かったかな。
ー職人さんに話を聞きに行っていたんですか?
靴が作れるようになりたいだけだったからね。商業のことも全く何もわかんなかった。どうやって食っていくかっていうより自分が靴を作れるかどうかが一番重要だった。試行錯誤しているうちに、なんとなく作れるようになってきた。友達の誕生日に靴を作ってあげたんだよ。そしたら、世界に1足しかない靴だってすごく喜んでくれたんだけど、それが結構ショックだった。それは希少価値っていう概念なんだよね。芸術の文脈からくる希少価値なのか世界に1足しかないっていう芸術的価値なのかわかんないけどね。結局、世の中の評価なんてモノから生まれないんだよなって思っちゃった。大量生産に対するアンチテーゼのように自分も思ってやってたんだけど、結果的にそこから抜け出せていない。それなら、大量生産してやろうって思ったんだよ。靴の工場に電話したり、実際に行ったりして「靴を作りたいんですけど。お願いします。」とか言ってね。そんなことできるわけないじゃんとか、おまえ金を持ってるのかとか言われて。金なんかないですっていうとアホか! って(笑)。 二度と来るな! って言われても、ほぼ毎日行くようになったら向こうも根気負けするんだよね。靴を靴箱に入れるバイトから始めろって言われて靴箱に詰めたりしたよ。工場の社長が「三原くんさ、デザインしたいんだったら工場にいちゃダメだよ」って。問屋紹介してやるって。それで問屋でも勉強させてもらって問屋業とか生産業がわかって靴が作れるようになったんです。
ーシューズデザイナーはファッションデザイナーの中ではどういった立ち位置になるのでしょうか?
靴は小物っていう扱いでバッグとか財布と一緒。靴のデザイナーっていうのはファッションデザイナーより低いとどっかでやっぱり見られてた。でも海外だと靴のデザイナーって独特な立ち位置があって。日本だとそういうことから戦っていかなきゃいけない土壌があるのは知ってたんだよね。ファッションの中で靴の世界は暗闇に見えたから、光になった方がいいなって。
ーデザイナーはなぜショーをするのでしょうか?
やっぱ遊びなんだよね。ショーの意味があるかないかで言ったらもうどんどんなくなってると思う。映像配信もあるしショーが全てじゃなくなっている。SNSでどんどん配信されるようになったから、その場所に行かなくても、ってみんな思ってるんですよ。ただ僕らにとっては必要なもの。年に2回強制的にやるっていう、遊びをやり続けてることがやっぱり楽しかったりするんだよね。ファッションの世界はいろんな形を変えてムーブメントがどんどん生まれていっていると思うし、そのムーブメントを生み出す一つの場所であるべきだと思ってんだよね。
なんで遊びって言ったのかっていうと、やっぱり「遊びは文化より先に」っていう言葉があるように、文化を本気で思うんだったらとことん遊ばないと駄目なんだよ。今の時代、遊ぶことを本気でやらなくなっちゃったから、商業が文化を作ってるみたいになってきてるよね。ファッションショーは商業的じゃないって思ってるのは完全に要らないものだから。遊び続けることができるんだったら、そこが戦いの場にもなる。
ー自分が作ったものに対して言葉は必要だと思いますか?
本当に伝えたいことってモノで作ってるから言論化する意味がないと思っている。例えば本当はこういう作品なんでって言ってしまうと100人いたら100人ともその言葉を信じる。それは概念のすり替えであって概念の解放や破壊ではないよね。「人と芸術を調和させる」っていうのは、100人いたら100人とも自由に考えてその作品の解釈を勝手に決めることなんです。それがやっぱり調和を生むんだよね。だから僕が靴だったり洋服に魅力を感じたのは、これはいいねよくないねで使う人たちが入ってこられるから。かっこいい、かわいいとかその軽薄さがまた固定概念を壊すのにとてもいいんだよね。
ーショーも理解して欲しくはないですか?
わかってもらわない方がいいかなって思うときもある。僕は考えてることはすごく暗いんです。全ての問題に人間は答えを求めようとするけれど、問題には答えが存在する必要はないなって思った方がいい。アートの良さって問題提起だけで問題解決の方法は一切考えなくていいところ。だから、ある意味すごくディープなんだよね。僕の場合、時代背景を考えながらクリエーション自体のギミックも一つのパズルのように考えています。だから本当に伝えたいことを伝えることより、人がそれを見て何かインスピレーションを得てほしい。伝わっちゃうとそこで止まっちゃうんですよね。伝わらない方が考える。僕はやっぱり答えを綺麗に出すっていうのはどっかで避けちゃうかな。
三原康裕 Mihara Yasuhiro
シューズデザイナー
1972年生まれ。多摩美術大学美術学部デザイン学科テキスタイル専攻の在学中に独学で靴作りをスタート。
1996年に自身のレーベル「MIHARAYASUHIRO」を立ち上げる。
2000年にPUMAとのコラボレーションライン PUMA by MIHARAYASUHIROをスタート。
2005-2006AWシーズンよりミラノコレクション、2007-2008AWシーズンよりパリメンズコレクションに参加。2016-2017AWシーズンからブランド名をMaison MIHARA YASUHIROに改称。
Masion MIHARA YASUHIRO
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Twitter:@MIHARAYASUHIRO