屋敷豪太 #ドラマー
ー現在、屋敷さんは綾部(京都)に住んでいらっしゃいますね。綾部はどんな街ですか?
綾部は自然がとても素晴らしいところです。京野菜や米が美味い。水が綺麗でお茶も美味しいし最高ですよ。
ー子供の頃の話を聞かせていただけますか?
おじいちゃんは奈良の出身。お墓も白毫寺にあります。この前、いとうせいこうさんとみうらじゅんさんが行ってましたね(笑)。おじいちゃんは綾部の女性に恋をして、勘当されて綾部に来たそうです。最近わかったんだけど兄弟で奈良から綾部にきて、丸正クリーニングというクリーニング屋さんを始めた。僕は6歳まで美山町で暮らしていました。美山町にクリーニング屋の預かり所があったからです。それから綾部に戻ってきて、親父が預かり所の隣でお好み焼き屋さんを始めました。平屋のトタン屋根。お風呂もない。夏は屋根のタール塗りをやらされていました。線路のそばでゲットーな雰囲気(笑)。
ーお好み焼き屋さんの思い出を教えてください。
1968年くらいかな? ちょうど日本がヒッピームーブメントの時代。The Beatlesが現役の頃。誕生日にThe Beatlesの「Let It Be」のアルバムを買ってもらった記憶がありますね。EMIサントラLet It Beの文字はすごく記憶に残ってね。その時代の流れでお店にはヒッピー系の人たちがよく出入りしていたんです。うちの母親は若者に優しかったから慕われてました。100円しかないなら卵とご飯!みたいなことができる母親でした。綾部にキャロルが来たことがあって、お店でチケットを販売していましたね。パリ・東京・綾部(笑)。チケットぴあやコンビニがあるわけじゃないし、個人店でチケットを売るのは珍しくなかったんだよね。仲良くなったヒッピー系の人のバンドに遊びに行ったりしていました。バスドラに足が届かないけど座らせてもらったり。上だけ頑張って叩いて遊んでましたね。いいお兄ちゃんたちに可愛がってもらってたんです。その人たちに音楽も教えてもらってましたね。
中学に入って最初の英語の試験で0点。ヒッピー系のお兄さんの中に英語が得意な人がいて、その人から英語を教わることに。洋楽を聴いて何て言ってるかわかる? と。ちょうどQUEENが出た時期で洋楽を教えてもらいながら英語を勉強しましたね。あとなぜだかわからないんだけど8トラックのレンタルもお店でしていたんです。トラックの運転手さんもクリーニング屋を利用していたからだと思うんですけど。親父は8トラックのテープの修理もできた。そこで映画音楽大全集、アメリカンポップス大全集、演歌大全集、コマーシャルソング大全集など。いろんな音楽たちを聴きながら育ちましたね。
ー小学校1年生から綾部太鼓を始めたそうですね?
小学校1年の夏休みに綾部に引越してきたんです。二学期から綾部小学校に転校。綾部は秋祭りが盛んだったんです。ある日、親父と歩いていたら太鼓の音が聴こえてきた。その音に魅了されたんです。クラブで音を身体で感じるような経験。なんとも言えないワクワク感。太鼓を目の前にしたら一目惚れです。それで綾部太鼓保存会の子供の部に入れてもらったんです。小学校の間、太鼓は続けていました。
ーお父さんが音楽好きだったんですか?
お父ちゃんは謎が多い(笑)。54歳で亡くなったから詳しい話できていないんです。僕も高校卒業したら家を出ちゃったしね。ビッグバンドとかジャズとかダンスも好きだったみたいですね。
ーお父さんがダンスをやられていたんですね。
綾部(京都)にはないんだけど、隣の福知山にはダンスホールみたいなのがあったらしい。20歳になるかならないかくらいの頃、男3,4人でそこに行っていたんだけど交通手段がバスしかない。で、最後にチークタイムがあるわけだ。けどそこまでいると最終バスに乗れなくなっちゃう。だからいつも悪ガキ3人でじゃんけんをして負けた人がバスの運転手を引き止める役をやって、2人はチークダンスまで踊って帰ってくる。何回かやってるともう運転手は「わかってるよ、待っててやるから。」って。いい時代だよね。最後まで踊りたいよね、そりゃ。
ーこう言っちゃなんですけど東京ではないところでお父さんが、そこまで情報を仕入れるってすごいですね。
父ちゃんが子供の頃はArt BlakeyやDuke Ellingtonが流行りだったんだろうね。モダンジャズ。お父ちゃんはArt Blakeyが好きで、僕が綾部太鼓を初めて聴いた頃に教えてもらったんだよね。Santanaも好きで車に乗ると聴いてたね。ドラマーの好みはお父ちゃんと一緒だと思う。
ー今でもそんなお父さん、なかなかいないですよね。
いないね。ダンスが好きだったから。Santanaに惹かれたんだと思う。インターネットもない時代だけど毎日ちゃんと新聞を読んでいた人ではあったね。ある日「ジャマイカの民族音楽やるから観とけ。」って言われて、それがBOB MARLEYだった。で、その頃ドラムを齧り始めたばかりで、Carlton Barrettのドラムを見て、辞めたって思ってね。こんなのできるわけないって思って。それまではThe BeatlesとかKISSとかQUEENだとか、まだなんかできそうだなって。でもCarlton Barrettのどこが頭かわからないようなあの気持ちよさ……にやられたよね。田舎で情報源があんまりないから、FMを聴くか親父に教えてもらうしかなかったんだよね。
BOB MARLEYを観たのも、ヤングミュージックショーっていう、それこそ月に1、2回しかやらないような、洋楽のベストライブと言われているものばっかりを紹介するNHKの番組があったのよ。そこでFleetwood Mac、Stevie Wonder、Daryl Hall & John Oatesを聴いて。ちょうどその頃、マックロードっていう録画機械が出現して、親父が買ってきて番組を録画して。一瞬しか映らないじゃん、ドラムなんて。しかも足元映らないしさ。再生したり巻き戻したりを繰り返していたら壊しちゃってね。えらい怒られた(笑)。
ーお父さんがガジェット好きだったんですね。
めちゃくちゃ好きですね。完全にその血を引いているよね。
ー初めてドラムセットを買ったのはいつだったんですか?
あれは小学生のころ……修学旅行に行くために、みんな積立しなかった? そのために僕はお店の手伝いをやらされた。バイト代をやるからって。それで僕はまんまと修学旅行代を自分で稼がないといけないはめになった。で、手伝いを頑張ったらちょっと多く溜まったのよ。6万円くらいかな。うちの近所の楽器屋へ行ったら中古のパールがちょうど6万円くらいで売ってて、まずそれを買ったのよ。それが嬉しくてね。本当に嬉しい。それが最初のドラムセット。シンバルとかステンレスとかおぼんとか叩いているほうがよっぽどいい音がするんだけど。
ーサッカーはいつ始めたんですか?
小学3年生くらいです。ポジションはあの当時、ライトウイング。今で言うサイドバックかな? 長友佑都選手みたいな感じ。それかゴールキーパー。
ー昔から背は高かったんですか?
そうだね。けどサッカーはめちゃくちゃ弱くて、京都府内の何かの大会で第1戦にちょっと強めのところと戦ったら15対0だった。ははは(笑)。忘れられないよね。15対0って(笑)。
ー中学生の時に初めて組んだバンドでは、どんな音楽をやっていたんですか?
もうやっぱりね、他の人もそうだと思うけどギタリストが何を弾けるかによるんですよね。だから一番最初はThe VenturesかThe Beatlesだったね。その後にちょっとずつみんな頑張り始めて、KISSのカバーとかやってたね。1つ年上だったんだけど、めちゃくちゃギターがうまい人が現れて。彼はCreamとかJimi Hendrixができたからやったり、僕はそれをちょっと手伝いに行くみたいな感じで。
ー同級生や周りには、音楽に熱い人が多かったんですか?
そうだね。割と不良っぽいやつらも、The Rolling Stones好きとかいたね。あとやっぱり僕らの時代は、キャロルがすごかったから。ちょっとした不良のやつらはキャロルの1曲くらい、例えば「ファンキーモンキーベイビー」のギターくらいは弾けないとカッコ悪いという感じだったからね。それを弾けたらもう、不良じゃなくても不良の仲間入りみたいな感じでいじめられない。僕はドラムで参加したりね。
ー高校の吹奏楽部で基礎を勉強したそうですね。
小学3年生から少年サッカーを始めて、6年生までどっぷりだったわけ。ドラムと同じくらい好きで。中学校にはサッカー部がなかったから、友達とバレーボール部に入って。中学1年生でBOB MARLEYとかCarlton Barrettに打ちのめされるんだけど、中学校の先生の影響でまた音楽熱が上がってきた。英語のスキルも上がって洋楽も楽しめる。今度は中学校の修学旅行の積立貯金で、100万円くらいするKISSのPeter Crissと同じドラムセットを買うんですよ。
高校に入ったらまたサッカー部があったから戻ったけど、グラウンドはほぼ野球部に占領されてたからおもしろくないなぁって思っていたところに、ブラバンの先輩から「ドラム、持ってるんやろ? お前なかなかうまいらしいやん」って声をかけられて。映画『スウィングガールズ』観たことある? あのストーリーと全く同じ。夏にコンクールがあって、課題曲がブラスバンド。吹奏楽の歴史上で初めてドラムが入ってる楽曲で、タイトルは今も忘れない「ディスコキッド」。どうしてもドラムが必要だからと入部しました。サッカー部の先輩にそう伝えたら、お前のそれは裏切りだ、一発殴らせろと言われてなぜか僕が殴られるわけよ。でも少林寺拳法も小学1年から高校までずっとやっていて、殴られ方はわかっていたから全然痛くなかった(笑)。まあそんなことがあって、夏休みは1年生の僕に、3年生の先輩と2年生の女の先輩2人が優しく教えてくれた。漫画の『巨人の星』かよって感じだけど、鉛の重たいスティックを渡されて。重たいから力づくではいけないのよ。もし叩き方が間違っていたら、きちんと叩けない。それで重さを利用しながらの跳ね返りやバランスを養ったね。今思えばすごくいい練習。あとはメトロノームを借りて、ひたすらそれに合わせること。そこで基礎を教えてもらって。課題曲の「ディスコキッド」っていう曲は書き譜面だから、どういう風に叩くか書いてあるわけ。それを夏休み中に全部コピーして銀賞を取ったのよ。それでなんかこう、ミュージシャン熱が再燃したというか。
ー100万円のドラムセットを買うことを親も止めないし、環境を味方にされていたんですね。
今から考えると100万もするもの、よく買わせるよね(笑)。でもプロになることに対してはあんまり賛成じゃなかったと思うな。高校1年生の夏のコンクールで燃え尽きた感じがあったんです。その後は惰性で高校時代を生きている感じだったから、やりたいこととかあんまりなかったし。音楽が楽しくなったんだろうな。Pink Floydとかハードロックなどのヒュージョンの始まりでもあったんだよね。いわゆるニューミュージック的なものとか、新しいスタイルがいっぱい生まれた時代。大概ライブにドラムソロがあって、それこそKISSもそうだけどドラムが花形だったんだよね。それでもう、とりあえず高校を卒業したら社会勉強に出ていいって1年だけ音楽活動を許してもらった。それでずるずる2年経って、東京に出るわけ。京都でもバンドに誘われたりStuffやThe Policeの感じをやったりしてた。
ー高校卒業後はどんな仕事をしていたんですか?
ダンプの運転手。お好み焼き屋時代の知り合いが紹介してくれたの。ダンプだったら土方的な仕事だから、時間が自由なんだよね。休みたいときに休めるし。それに車の中で音楽が聴けるしやろうかなみたいな。当時まだ、ウォークマンとかなかったから。
ー東京でやりたいと思った理由ってなんだったんですか?
それは18歳で仕事をしながら一人暮らしを始めて、割とすぐに彼女ができちゃって(笑)。6歳上の彼女。飲み屋でたまたま知り合って、その人と同棲することになった。彼女が文学少女みたいな感じもあって、人生経験も豊かでね。それで、「あんた本当にミュージシャンやりたいの? そうなんだったら京都にいるよりも、世界を目指しなさい。だったら、東京でしょう? 」って。当時はインターネットもなければ、今みたいな世の中じゃなかったからね。京都は半分趣味で音楽している人の方が多いし、割とブルースとかパンク的なもの、ニューウェーブやプログレッシブ・ロックが多かった。けど僕はもうちょっとこう、Sly & the Family stoneとかレゲエとかが好きだった。それで彼女の言う通り、一度の人生やるしかないと思って親に言ったら、彼女がいるっていうことだけで激怒されて(笑)。半分勘当っていう形で20歳の春に東京に行くことになった。でもお父ちゃんは引っ越す日の夜中にやって来て手伝ってくれたんですよね。涙涙ですよね。本当にもう、すごい覚えているもんね、後ろ姿とか。夜中に出発して、夜明け頃富士山が見える静岡に、朝早くに東京に着いた。借りたアパートに荷物入れて、新宿にトラックを返しに行った。それが初めての新宿。「わーこれ、『太陽ほえろ』に出てくるところや、西新宿〜!」って。
ーMELON加入のきっかけが雑誌「Player」のメンバー募集にご自身で電話をされたっていうのが有名な話ですね。当時から周りの人よりドラムがうまかったんですか?
正直、自分ではわかんないと思うの。音楽的な鏡がないから。とりあえず僕の中ではどうせ東京に来たんだから、東京らしい地域の人がメンバー募集してる(神宮前3丁目だった)所を探してオーディションに行きました。ベースでバンドリーダーの松元さんはミュージシャンというよりは、どっちかといえばファッション系の人だったの。聞いてみると兄弟で洋服の卸業みたいなことをやっていると。彼がいなかったらMELONとか藤原ヒロシとかああいうファッション系の人と出会うことはなかった。凄くオシャレな人だし、僕の中で東京の人じゃん(笑)。東京の人はみんなこんななのって思ったけど特殊な人だったんだよね。僕は綾部太鼓、親父の影響でダンス音楽系が好きだったわけだけど、松元さんもそういうラテン、レゲエみたいな感じだったんだよ。例えばアカデミックなというか、正統派ドラマー募集のところに行ってたら、僕はいつまで経っても花咲かなかったと思うんだよ。そんなにテクニックがあるっていうわけでもないし、そういうところだとあんまり相手にされなかったと思う。でも僕は和太鼓からきていて、ダンスっぽくてファンキーな、これまでにないようなものがやりたいと漠然と思っていて、そういう人たちに出会ったことで簡単にいうと、躍らせるだけのリズム感を持ったドラマーだったと思うのよ。それでオーディションに受かったんだと思う。馬力はあったんだろうね。すごく気に入ってもらって。あとでわかったんだけど松元さんは奄美大島出身の人で、でもその時僕はバリバリの原宿、東京っ子だと思っていた(笑)。
ー当時、屋敷さんはどんな格好だったんですか?
僕は自分の中ではちょっとスライっぽい、パーマが伸びた関西のおばちゃんみたいな格好で、メガネもピーコさんみたいな感じので。そうしたら松元さんに「豪太さ、もうちょっと髪の毛短くしてさ、銀縁メガネとかかけない? 」って言われて、自分ではちょっと違うなあと思いながらも神宮前3丁目の人に言われたらさ、はいわかりましたって、髪の毛もしゅっと切って、そんな感じ。
ーピテカントロプスの影響もあったそうですね。
すごくあった。ラッキーなことに春に東京に引っ越して、オープンが秋だったんだよね。すごいタイミングで行っちゃったわけよね。その頃、せいじさん(永井誠治)とかがニューヨークにいて、MTVのビデオをガンガン送ってくれて情報量がすごかった。僕はそこでヒップホップのすごいものをいっぱい見ちゃうわけですよ。Herbie Hancockの「Rockit」、映画『WILD STYLE』とか。なかなかあんなもんを映像で観られるってないからね。
ーあの時代の最先端を走られていたんですね。
もういきなり、神宮前3丁目にすくーっと入っちゃった感じだよね。松元さんが住んでいる隣のアパートに佐藤チカちゃんが住んでいて、結構交流もあったり。クロコダイルっていうところでライブをやるときに、チカちゃん、としちゃん(中西俊夫)、工藤ちゃん(プリンス工藤)も来たって言ってたな。僕はもう銀縁メガネで、チカちゃんにはすごく新鮮だったらしい。この辺にいない子ね、みたいな(笑)。
ー生活が楽になったと実感したのはいつ頃ですか?
MELONに入って途中からダイヤルMって事務所に入ったんですよ、MELONのメンバーごと。ロンドンでレコーディングする頃には簡単にいうと給料みたいな形で少しは入ってきてた。ピテカントロプスでやっていた頃は不動産でバイトしていました。時間の融通きくからね。20代の頃ってお金がなくても何とかなる。
ー最初の海外は、MELONでのライブだったんですか?
初めて海外に行ったのはローマだった。MELONで。細野晴臣さんも出ていたかな。絡んでいたと思うんだけど。日本との文化交流みたいなものがローマで行われて、日本の新しい音楽を紹介する、みたいなのでMELONとか鈴木賢司もいたね。結局、鈴木賢司は飛行場に誰も迎えに来なくて、怒って帰っちゃったんだよ。僕らは、その足でもうちょっとそのまま……ってレコーディングでロンドンに行ったんじゃなかったかな。
ーイギリスへ渡ったのが1988年ですよね。インターネットがない当時は海外の情報ってどうやって仕入れていたんですか?
まあ基本的には海外から帰ってきた日本人に会って話を聞くってのが多かったね。その人らは絶対何かを買って帰ってきているから、見たり聴いたり。ヒロシにしてもそうだし、せいじさんにしてもそう。海外行ってきた人の見聞を、その人の家に行って聞くっていう感じだったね。音楽的なものでいうと、シスコやタワーレコードに行って何となくレコードを見ている振りをして、音楽を聴いて、あ、今のはなんですか? みたいな。ミュージックマガジンの雑誌を買う人もいたけど、僕は文字が好きじゃなかったのか、あんまり読まなかったんですよね。
ーやっぱり人に聞いて話す、これが大事だったですね。
そういうのが好きだったんだよね。としちゃんとかヒロシもそうだけど、あの当時からもう、どうやって情報を集めてくるの? っていうことをしていた連中でしょ。そういう人たちが周りにいたから、最新の音楽とかが周りにあるわけよね。自分で探しに行かなくてももうそこにあった、と言った方がいいかもしれない。そこから「豪太、こういうのをやりたいんだけどさ」って言われて、分析して形にする役割になっていくわけだけど。
ーなぜ海外へ行かれたんですか?
京都から出る時は世界を目指す勢いだったけど、まず英語がしゃべれないし、外国人に会う機会もなかった。MELONを始めた頃からモデルの子と少しずつ英語を話すようになったんだけど、まさか自分がロンドンに行けるとは思っていなくて。初めてローマに行ってカルチャーショックもいいところですよね。日本からいきなり口一マ帝国をみたらさ、全然違うところだと思うよね。その後にロンドンへ行ってニューヨークを見て、刺激を受けやすい年齢でもあったから自分の中で抑えられない何かがふつふつと湧いてきてたんだと思うんだけど。そうしているうちに、MELONがVirgin 10と契約をして、海外にプロモーションで行くことになった。いろいろな国に行ったけど、ロンドンは日本っぽい、京都っぽいというのを感じて好きになってたんだよね。それが1983〜4年。それで1985〜6年くらいに、次は日本のSONYと契約した。ヒップホップが日本にちょっとずつ浸透しようとしている頃に、僕らが言ってみれば宣伝役になってやっていたんだよね。その頃にMAJOR FORCEの走りみたいなのができ始めていたり、MELONがSONYから出すファーストアルバムをレコーディングする頃、ZTT Recordsがすごい盛んだったんだよね。Malcolm McLarenのアルバムが出たり、Trevor Hornが、やっているFrankie Goes TO Hollywoodだとか、Grace Jonesだとか、Yesだとか、いっぱいあったよね。音がすごいからそこで録音しようってなって。バブルが始まった頃だから長くいられて、気がつけば半年くらい経ってたんですよ。当時、1ポンド250円とか300円近かったかな。そこで英語も片言だけどしゃべれるようになった。
レコーディングが終わって、何日か休みだってときに田舎に行ったの。するとそこは茅葺き屋根じゃないけど、昔のイギリスってこんな家ばっかりだったんだろうな〜って思ったり。ロンドンは中華かインド料理ってイメージだったけど、パブに入って田舎料理、いわゆるシチューとかローストとかそんなものを食べて、なんだこんなにうまいじゃんって。しかも田舎で暮らす人たちの人柄がすごく温かったんだよ。
その当時もだけど昔から、音楽はアメリカとイギリスで面白い相乗効果があった。でもイギリスのほうが発明家で、アメリカはプロダクトにすることがうまいみたいな感じがあって。とにかくレコーディングのやり方もそうなんだけど全てに興味があって。日本は見よう見まねでやっていて、あれをやっちゃいけない、これをやっちゃいけないってのが多かったから。当時ね、僕の中ではいろんな国の人たちが集まったバンドがやりたい願望がなぜかあってね。それでニューヨークもそうだけど、ロンドンなんかはもう、いろんな国の、いろんな人種の人がいる。それがやっぱり日本にはない。日本の音楽というよりは、日本人でしかつくれない音楽だった。そうじゃなくて僕は世界中の人で作っている音楽環境に行きたくなっちゃったんだよね。それで、としちゃんとかにごめんって伝えて、「ちょっと1年だけ勉強に行く」って言ったら、20年間いちゃったってことだと思う。
ーロンドンにつてはあったんですか?
Nellee HooperとTim Simenon2人だけ。本当に知らなかったからね。2人はDJだったから、日本にも来てDJしてたわけ。その当時、さっきの見聞録じゃないけど、あいつらが来たら絶対に面白い音楽をかけるから遊びに行って、あれは誰、これは誰って。音源を入手できたらラッキーだけど、そうじゃなかったらカセットに入れたりして。少人数のサークルみたいなもんだよね。その中に、Nelleeがいたり、いわゆるThe Wild Bunchって呼ばれているメンツだよね。その半分くらいが、Massive Attackになるわけだけど。Nellee がMELONは面白いからって、ロンドンに僕らが行った時もレコーディングスタジオに遊びに来てくれていたわけ。そしたらNelleeは、MELONをプロデュースしたいって勢いで言ってくれてた。「何言ってんの。お前はDJなんだからプロデューサーなんてできるわけないじゃん」くらいの、僕らはすっごく上から目線だった(笑)。それから僕が一人でロンドンに行ったわけだけど、Nellee HooperとTim Simenonの電話番号しかもっていなかった。で、Nelleeに電話したら今、Soul II Soulっていうバンドでプロデューサーをやっている、と。え、DJじゃないの? みたいなところから、僕が音楽をできることを知っているからちょっと手伝ってほしいって言われて。今度はTim Simenonに連絡したら、ちょうどその時にヒット曲が出ていたNeneh Cherry とヨーロッパツアーをやるんだけど一緒に周らないかって言われて、いいじゃん、と思って行ったんだよね。でもオーガナイズがめちゃくちゃ悪くて、どこだったか行ったら客が1人しかいなくて。告知されてなかったんだよね。宣伝が遅れていて、その日に初めてポスター見ましたよ、みたいな(笑)。全然ダメで、あの頃まだベルリンの壁もあったしね。それが1988年の秋だね。そんなことをしていたらSoul II Soulとか売れ始めちゃって、そっからはもう。
ーヒットするときってどんな感覚ですか?
これがヒットするぞって作っているにしても、やっている人は本当にヒットするかはわからないじゃん。それで出したら、やたらかかってる、ここでもかかってるよ、みたいな。洋服を買いに行ったら、道端歩いていたら、車に乗ったらラジオでかかっている。もういいから、もう本当に聴きたくないってくらい。今でいうバズり。自分もバズるし、ちょっと他の音楽聴きたいんだ、と言ってるうちに、今度は似たようなプロダクションの音楽がいっぱいかかり始めるわけよ。「うわスッゲーな、こいつらだっせー、このコピーの仕方だっせー」って(笑)。 これ特許じゃないのとか言いながら、本当にあの当時は何をやっても売れるから嘘みたいなのよ。
ーそんなに売れたんですね。
Nelleeと2人でやった、Soul II Soulだとか、Sinéad o’Connorとか。NelleeはそのままBjörk、Massive Attack、GWEN STEFANIとか、何やってもうけるわけ。不思議だよね。そのセンスの塊というか、やることなすこと、みんな面白がる。僕なんかもその余波で、Simply RedのStewart Levineから声をかけられるのよ。Stewart Levineは本物のプロデューサーだね。NelleeはDJ だからさ。
ー屋敷さんにとって、本物のプロデューサーって何ですか?
やっぱりQuincy Jonesとかもそうだけど、アーティストをどういう風に育てるかっていうのはプロデューサーの手腕にかかるけど、プロデューサーって色んな種類の人がいると思うわけ。例えばTrevor Hornだとか、色んなミュージシャンを集めてあーだ、こーだ始めて、あれいいなこれいいなっていうコレクターみたいなタイプ。NelleeみたいにDJもやっていて、だからいろんな音楽を知っていて、自分の中でこれとこれをしたらこうできるってイメージができるタイプの人。あとはレコード会社とかビジネスとして通じている人や、元々音楽が好きで、音楽の一音一音を分析できるタイプの人。Quincy JonesとかStewart Levineもそうだけど、彼らは元々ミュージシャンでアレンジもわかる、譜面も書ける。書けるからオーケストレーションも何から何までできるし、予算の管理もできる。もちろんNelleeやTrevor Hornもやっていたけど、危ういよね(笑)。でも彼らはプロデューサーとしては本当にお手本のような人。だから長年やっていても、ずっと続けてプロデュースができる人たち。Trevor Hornはコレクターとして色々やっていて、それはそれでできるところまでできるけど、加えて彼らはいつもいろんな音楽の情報交換をするネットワークがあって、それをちゃんと分析して、一から作れる。NelleeとかTrevor Hornは自分の作品のためにアーティストを育てるというか。逆に言えば、アーティストに色がなくて、何かしらのヒットを出したいっていう人にとっては最高なわけよね。でも本物のアーティスト、シンガーソングライターにしろ、ただのシンガーにしろ、めちゃくちゃ力量がある人をどうやって育てるかってなった時に、Stewart Levineみたいな人が育てるとやっぱり本物になっていくよね。
たくさんのプロデューサーに会って見てきたんだけど、あぁなるほどなって腑に落ちることがいっぱいあるわけ。例えばソロをひとつやるにしても、「今の良かったけど、ドじゃなくてソにいった方がいいよ」とかよりも、「今日の天気は最悪だよな。この怒りをぶつけてみなよ」とか。なんていうかな、そのスタジオの雰囲気をうまくコントロールして、そのアーティスト本来が持っているものを録音することが、すごく得意な人だね。色んなタイプがいて、どれがいいとか悪いとかない。エンジニアプロデューサーは音をとにかく表現として作っていってあげる。あ、僕はこの音が欲しかった、っていうのを作り上げてミックスまでできるエンジニアはプロデューサーとしても扱われる。
ーSimply Redに加人になるわけじゃないですか。 ワールドツアーってどんな感じだったんですか?
自分が夢に見たものじゃんって。高校を卒業する時に親父からお前は河原こじきになるんやぞって言われたり、担任の先生から何とか就職するか学校行くかしろよって言われたり。いや僕はプロのドラマーになって世界ツアーに行ってはべらしてくらいの勢いでさ。自分の中ではそういう夢が叶っちゃう瞬間なわけよね。これこれ、これがワールドツアーだよっていう。しかもヒット曲を引っ提げてのワールドツアーだからファーストクラスツアーって言われたね。だって家にベントレーが迎えに来るんだもん。で、自家用機に乗ってロンドンからドイツの飛行場。そのままドイツのテレビ局まで黒塗りのべンツでビューンって行っちゃって。あれ、パスポート見せなかったよな、これかぁって。Tim Simenonの時はオーガナイザーが悪くて、ヨーロッパツアーも自分としては夢見ていたんだけど、バスに乗ってゲーゲー吐いて、車酔いするわ、両極端ですよね。Soul II Soulはずっとスタジオだったから、ツアーとかなかったしね。
ーワールドツアーの絶頂期の最中で、 これを夢見ていた時に18歳の自分が言われたこととか、当時の気持ちって思い出しましたか?
思い出すし、僕の周りに日本人がいないわけよ。それで本当か嘘かわからないけど、今日のブラジルの野外コンサート何人来てるのって聞いたら70万人って言うのよ。笑うしかないよね。当時の自分に対して、笑っている感じよね。僕、今ここにいるよ。他の日本人でこんな体験している人って、今もいないと思うし、笑いが止まらない状態だった。嬉しいし、幸せ感満載。ただちょうどその頃、親父が亡くなるんだよ。で、僕の中では、現実逃避というのもちょっとあった。それまでは、ずっとスタジオレコーディングばっかりで、本当に朝まで毎日毎日頑張ってやりましたよ。親父が亡くなったときは日本に行ったり来たりしたし。その時NOKKOのファーストアルバムをやっていたのかな。彼女のツアーには親父が亡くなったから出られなくて、そんなのもあって、自分の幸せの中には音楽を好きだった親父と、本当だったら今頃見に来たりとかあっただろうなとか、そんなことをよく考えていたかな。
ー屋敷さんがしているプロデュースとは?
知らない人たちに、これはこういう人たちですよっていうちゃんと形にすること。これはお茶なのか、コーヒーなのかわかんないじゃん。これはお茶ですよ、しかも苦いですよって、それをわかりやすく教えるように形にできる人だと思うんですよ。
ーわかりやすくすることが、ポイントですか?
そうですね。もちろん音楽って自由だと思うから、そのままで0Kな人もいて、そういうときはプロデュースしないの。逆にいうとそれがプロデューサーなの。例えば僕がスガシカオくんのプロデュースをした時に、彼から「豪太さん、あんまり何もしていないですよね」って言われたけど、やる必要がないからやらないだけ。それをどう評価されようが、僕にはその曲が売れればいいわけだから。そういうもんだと思っていて。それこそ匙加減はプロデューサーそれぞれだから、例えばJohn Cageの無音を、これが曲だって言われたら、プロデューサーはどうする? みたいな話でしょ。レコード会社の人にこのアーティストをデビューさせるにはどうしたらいい? と言われたら、僕の立場としてはわかりやすいものを提供してあげて、ラジオでかかりやすいようにするとか、媒体にのりやすいものにするという役目があるわけ。逆にアーティストがそんなもの関係ないって言ったら、じゃあそのままどうぞってすればいいし。今なんて媒体とか関係ないし、インターネットがあれば何でもできるわけだから、ご自由にどうぞ、なわけで。昔はインターネットがないから余計に、如何にラジオにかかるか、如何に人に聴いてもらうかっていうのが大きかったね。
ー日本に戻るきっかけはどんなことだったんですか?
20年近くロンドンにいて、自分のお母ちゃんも歳をとってきたっていうのもあったけど、60年代以降洋楽主導でおもしろかった音楽が、2000年代になってインターネットが出始めて、コンピューターミュージックがすごく盛んになってきたら、どこにいても同じじゃんってなったわけ。別に東京にいなくても綾部でいいじゃん。コンピューターもあって、自分である程度演奏して、もはや今はリモートでデータのやりとりができるし、曲ができて合奏しようと思えばその時だけ行けばいい。そんな時代が2000年過ぎたくらいからなんとなくあったでしょ。それがひとつの理由。もうひとつはやっぱりそれまで英語の世界にいたわけだけど、段々日本の歴史とか、日本の言葉の奥ゆかしさ、わびさびとか、そういうのが面白くなってきたんだと思う。一周して裏返ってきたっていうか、その邦楽だせー、日本語だせーと思っていたものが、もう外人として日本を見る目になっちゃって、そうしているうちに日本のアーティストの音楽や歌詞がささってきたりするわけよ。それで今なら、そろそろ日本でおもしろいことができるかなって。自然発生な感じで時間がかかってもいいからやろうかな、くらいの気持ちで。だから音楽事務所というよりは藤井フミヤの事務所に籍を置かせてもらって単純に連絡先ってことにして、余計な仕事をしない。余計な仕事っていうのもおかしいけど、ちょっとこう、外すっていうか。元々フミヤはピテカントロプスの頃から知り合いだし、チェッカーズ解散の武道館も彼の車で見に行った仲だからね。
ー藤井フミヤさんの「TRUE LOVE」のギターを一緒に買われたそうですね。
僕はSealの2枚目のアルバムの1曲を、ドラマー兼プログラマーで参加するのに LAのベル・エアにあるTrevor Hornの別荘でレコーディングするところだった。で、ちょうどその時フミヤもチェッカーズ解散して、ちょっとゆっくりしたいのもあって。他の友達も含めてみんなで合流したのよ。僕の当時のマネージャーが、めちゃくちゃギターのコレクターで「フミヤ、これとか家でぽろんと弾くのにいいんじゃない? 」って薦めたのが、「TRUE LOVE」のギターになったわけ。
ー海外のアーティストから、屋敷さんのドラムのことはどういう風に形容されることが多かったですか?
どうなんだろうね。サンプリングCDっていうのを出して、みんながもうそれをサンプリングしてデモ曲を作ったり、本物の作品になったりしていて、そこから僕に「グループアクティベーター」って名前がついた。より元気に活性化させる人、そんなイメージがあったみたい。日本人だから和太鼓がどうのとか日本人っぽいよねとか言われたことはなかったかな。僕が得意とするのは、打ち込みと、生。そういうところをみんなはわかってくれていたみたい。日本に帰ってきたら、逆にそのことを理解している人は少なかったかもしれない。今になってむしろわかってきて興味を持つ人が増えてきて、当時のあの打ち込みはどうやったんですか? とか話を聞かせてください、とかね。一緒に作りたいですとか、30代前後の若い人が多いね。それがおもしろい現象だなって思って。
ーロンドンのスタジオはどういったものが多かったですか?
ロンドンのスタジオはいろいろあるよね。教会を改造したところもあれば、大きなホール、チョコレート工場もあった。やっぱり造りが日本と違って汚い。床のカーペットはネトネトして気持ち悪いところが多かったけどね(笑)。でもアビーロードスタジオとかは、みんな白衣を着てたね。今はもう違うかもしれないけど。昔はオリンピックスタジオとアビーロードスタジオしかなかったんだって。The Beatles以降に、プライベートスタジオが増えていったんだね。
ー綾部にスタジオを作ったそうですね。
コロナが流行する前に建てると決めて、2021年の1月から稼働し始めました。ここで何かやれっていうことやなっていう。逆によかった。
ースタジオでは何曲ぐらい収録されたんですか?
初めてレコーティングしたのは槇原敬之くんの「Yosoro」。尾崎亜美さんのアルバムもやって。いろいろなアーティストや自分の曲も録ってますよ。
ーアーティストの方々のサポートメンバーとしても参加されていますね。
好きですね。プロデュースとか作るのも好きなんだけど、プレイするのが好きで、やっぱり体カ作りにもなるし健康法ですからね。何にせよドラムなんて特にいつも叩いてた方が良いですよね。ツアーとかやると1日20曲ぐらい。3時間半くらい演奏するからね。年間、50〜60本ぐらいはあるとやっぱ調子がいいね。コロナ禍では綾部のスタジオで叩いてたからよかったんだけどね、それがなかったら結構なまってたかもね。本番がないと真剣に叩かないよね。
ー屋敷さんはドラムがうまいんですか?
ドラムって特に音階とかないから。もうグルーヴとかそういうことのバランスだけだと思います。最近僕が思うのは、ドラムがうまい人はいっぱいいるなと。僕なんか割と雑といえば雑だと思う。元々和太鼓から入ってるから、アプローチの仕方が他の人とちょっとは違うのかもね。どっちかというと太鼓を叩くみたいな。上手いのか下手なのかっていうのは何を基準にしてうまいって言うのかって話もある。僕のスタイル、ミュートビートの頃からあるビート。ファンキーなものが好きだったりとか、これまでやってきた作品を聴いて、一緒にやりましようよって言われると嬉しいですね。よく歌いやすいって言われるんですよ。テクニック的にたくさん持ち駒があるわけでもないからね。歌の譜面でももちろんやるときもあるけど、大概……特に槇原くんの曲は、譜面で見るよりもメロディーとか歌詞で見た方がドラムが叩きやすい。歌を聴きながら歌詞を見ながら演奏すると気持ちが入る。歌いやすいってのはそういうところなのかもしれない。テクニックがたくさんあるといろいろと余計なことをしちゃうから、逆にしない。
ードラムの地位向上、演奏印税に関してはどう思っていますか?
なってきてますよね。演奏者印税っていうのは、昔はなかったからね。最近はラジオでプレーされたりしたら、演奏者に少しだけど入ります。昼ご飯代ぐらい夜ご飯代にはならない(笑)。もちろんヒットした曲はすごくたくさん入ってくるよね。Simply Redの曲なんていうのはいまだにたくさん入ってくるよ。また入ってきた、嬉しいみたいな話です。自分で作ったソロのインストの作品がテレビ番組のオープニングソングに使われているんだけど、それもちゃんと支払われる。インストとか作っとくもんだなみたいな(笑)。まさかそんなふうになるとは思ってなかった。その時は単純にインストが作りたかっただけなんだよね。
ーajito (綾部のスタジオ)のこだわりはどんなところですか?
機材で言うとマイクですね。eBayでコツコツと。イギリスでも日本でもやっぱりプロが選ぶマイクっていうのがあって、今日はいい音が録れたな思って見ると大体いつも同じマイクだった。そういうマイクを揃えたっていう感じです。C12、U47、U67。リボンマイクのコールズもある。あとはいつも温度湿度を同じにしているんです。マイクは1本で結構いい値段するから。ちゃんとデシケーターの中で保管しています。センシティブだからね。コロナが流行る少し前から集めてた。タイミングとしてはギリギリ良かったんだよね、その後みんな買い始めて、すごい値段上がってんだよ(笑)。
ギターはひとしきりいろんな種類は持っています。エレキもアコースティックもそうだけど、音が大事。イギリスでレコーディングしていた時は機材が多い。卓もでかい。でも今はそんなんなくてもできる。他にもあるんだけど宮崎(Dub Master x)にお薦めされてUniversalAudio を始めたんだよ。僕は元々、ATARIだったの。その前はシーケンサーとしてYAMAHAのQX3を使っていた。何でATARIかっていうと、コンピュータゲーム用だから余計なものが入ってないわけ。コスト削減のために。シンプルだからタイミングがすごくいいわけよ。リズムを作るのにはすごく良くて。ある程度経ったらATARIで使ってたソフトがMacでも使えるようになった。最終的にはMacがロジックを買収する。なんとMacの純正ソフトになった。
ー屋敷さんはデジタルに追い越されていないんですね。
僕はLUNAっていうソフトを使っているんだけど、これのアドバンテージは何かというとレイテンシーがゼロ。普通だとコンピューターに音を入れてからモニターするような形になるから、ドラムとかギターがちょっと遅れるわけ。それが気持ち悪いんだけど、これはもう全くないわけ。僕はそれがいいと思って導入してる。シュミレーターも優秀。Fairchildとか入手困難なものが再現できる。何でもあるわけです。ちょっと前までだと、こういうものもおもちゃみたいなもんで音質が良いものではなかった。コンピューターも賢くなってきたから、これまで周波数が44.1とかってCDレベルだったのが48になり、それが今96になってる。アナログテープは特性上、すごい高い方の音は再生能力としては劣るし、低音も劣るけども、全部の周波数が入っている。CDだと周波数は全部入らない。聴こえてないんだからって言うんだけどそんなことはない。聴こえない倍音成分っていうのが実は人間の一番気持ちいいなと思ったりする部分。96になると、もうほぼアナログに近い。ってなると、録音したときに再生してもテープよりもデジタルの方がいいし、それにこのシミュレーションでテープのにじみ感とかが出るようになった。もうひとつ言うと俺はエンジニアじゃないから、いちいち機材をメンテして最高の状態を保つ時間があるんだったら、曲を書いたりドラム叩いていたいわけじゃん。ロンドンでそれこそいろんな人たちを見てきて、みんな自分でもスタジオを作って、そこではテープマシンを買ったり、ヴィンテージ機材も使っていたけど壊れる。ベストな状態でいつも録音できることはなかった。それが逆にいいときもあったりするけど、またあのときと同じ音を録ろうと思っても、もう無理だよね。テープもすり減っちゃうし真空管も古くなってくる。デジタルだったら古くなりかけた真空管のシミュレーションもできるし、入れたばっかりの真空管のシミュレーションもできる。アナログのにじみ具合の調節ができて、しかも壊れない。マイクにこだわったのも入り口だけはちゃんとしなきやいけないと思ったから。やっぱり今のマイクよりC12、U47、U67はいい音だと思う。決してレトロな音がするわけじゃなくて、むしろハイファイなのすごく。フラットでレンジが広い。このスタジオは狭いけどすごく大きなスタジオと同じことができるし、自分が表現したいことはここで全部できる。
ーまだまだ現役を続けていかれるんですよね。
まだって言われるともう、そろそろやめた方がいいのかな(笑)。好きなんだよね、ただ単純に。好きで突き詰めたくてやってる。 ニーズも必然的についてくる。好きだから続けられるし、探究心も湧く。もしも金儲けのことだけ考えてたら俺ミュージシャンやってないと思う。お金儲けに人生かける気はない。音楽やって、それなりに食べていけたらいいぐらいな感じ。あとは自分の好きな作品作りをして、自分の好きな奥さんと一緒に過ごしてご飯美味しいねとか、そんな感じが一番幸せだよね、やっぱり。いろんな人と一緒に演奏もしたいけど、ワールドツアーはもういいかなと思うし。半径100キロ圏内ぐらいの感じ(笑)。作っている音は100キロなんて超えていく、今はそれを聴いてほしい。
屋敷 豪太 GOTA YASHIKI
1962年 京都生まれ。
1982年に上京し、こだま和文らとMUTE BEATを結成。
1987年にはMELONのメンバーとして、ヨーロッパ公演を行う。また、中西俊夫、藤原ヒロシらとダンスミュージックレーベルMajor Forceを設立。
1988年に渡英後、1989年Soul ll Soulの1st.アルバムに参加することからグランド・ビートを生み出し、世界的な注目を集め、その後もロンドンを拠点に、さまざまなレコーディングに参加。
1991年にはSimply Redの正式メンバーとしてアルバム「Stars」のレコーディングと 2年間にわたるワールドツアーに参加。
ジャンルを越え、多くのアーティストをプロデュース、また楽曲をリミックスする一方、ソロアーティストとして、またB.E.D.(Jimmy Gomezとのユニット)としてアルバムを発表。
2004年から活動の拠点を日本に移し、新人アーティストのプロデュースや、アルバムプロデュース、リミックス、
またドラマーとしての活動などを精力的に行うかたわら、ソロプロジェクトとして iTunes Music Storeより『Vol.1(2005.9)、『Vol.2』(2005.11)をリリース。翌年1月にはCD化(『Silent Love』)された。
サウンドトラック制作という分野では、堤幸彦監督のドラマ「下北サンデーズ」(テレビ朝日系列.2006.7-9)、
「巷説百物語~狐者異~」(WOWOW.2005)、「巷説百物語~飛縁魔~」(WOWOW.2006)等を手がける。
また、サッカー関連の楽曲依頼も多く、Fantasistaレーベル/ DATA STADIUMよりリリースされているDVDへの、テーマ曲を含む楽曲提供を中心にサポーターズソング制作や、国際試合の選手入場の際に使用されていた「World Soccer Anthem」のアレンジ等を行う。
またテレビへの出演も、自らがホストを勤める『meets music』(WOWOW 2006.4-2007.3)が放送開始。
ゲストミュージシャンとのセッションでオリジナリティあふれる選曲・アレンジを披露しながら、番組の進行役もつとめていた。同時に『新堂本兄弟』(フジテレビ系列) では堂本ブラザーズバンドのドラムを担当。NHK総合テレビにて放送中の『プロフェッショナル 仕事の流儀』のテーマ曲「Progress」を演奏している kōkua のメンバーでもある。
これまでにレコーディング、ライブ等で関わったアーティストは、Bomb The Bass、Soul ll Soul、Sinead O’Connor、SEAL、ABC、Massive Attack、Tom Jones、Bjork、Neneh Cherry、Swing Out Sister、藤井フミヤ、槇原敬之、スガシカオ、尾崎亜美、小泉今日子、NOKKO、JUJU、いきものがかり、MOND GROSSO (敬称略・順不同) 等、多岐に渡る。
また、小原礼氏とのユニット「The Renaissance」やダブバンド「DUBFORCE」での活動も行っている。