髙橋裕哉 #バレエダンサー
ー生まれはどちらですか?
東京の大井町です。僕は2歳から4歳まで水泳を、10歳になる頃には柔道と機械体操と習字、それと野球とサッカーもしていました。自分でいうのもなんですが運動神経が良くて(笑)。スポーツが大好きな少年だったんです。
ーバレエに出会ったきっかけは?
先に妹がバレエスクールに通っていて、その送り迎えで出会いました。
ーなぜバレエをやってみようと思ったんですか?
元から僕は母親の言うことを守るタイプで、「やってみなさいよ」って言葉に乗っかってみることが嫌いじゃなかったので自然とバレエにも挑戦してみようと思いました。身体を動かすのも好きだったので。それでも最初はバレエのイメージに抵抗があり、タイツも履きますしね。ですが妹の送り迎えのときに、ゲストで男性のプロバレエダンサーが踊っているのを見て単純に格好いいと思ったんです。女性とペアで踊るというよりは、男性のプロバレエダンサー像を思い浮かべてバレエをしてみようと思いました。そのバレエスクールには他に男の子はいなかったので、僕は女の子の中に一人でポツンといる男の子でした。
ー思春期を迎えても尚、続けることのできたモチベーションは何だったんですか?
初めて町田のバレエコンクールに出場したときなんて男子は僕含め2人しかいなかった。でも、そこで出会った男子をみてこんなに上手いんだと驚きました。それからどんどんコンクールに出るようになって、バレエをしている男友達は増えましたが、自分の通うバレエスクールを出て男子だけの枠でバレエを習う、ということができていなかったら続けられなかっただろうと思います。女性の中に一人だけポツンといる、が続いていたら耐えられていなかったですね。
ーいつ、留学を決意されたのですか?
海外の国際コンクールに出場するようになってから意識し始めました。日本の文化や伝統を学ぶため、例えば力士になるためにパリへは行かないじゃないですか? それと同じで海外の伝統ならば海外で勉強するのは当たり前だと思っていて、本場に行って一流になりたかったんです。12-13歳くらいから留学ができるのであれば今すぐ行きたいと思っていて、英語を何にも話せない中で中学2年生の夏にカルフォルニアのサマーコースに2週間行きました。僕は家族になるべく負担をかけたくなかったので、学校への入学許可とスカラシップをもらった上で留学するということは僕の中で絶対条件だったんです。だから日本人バレエダンサーの王道ですが、コンクールに出続けて奨学金を得て留学・卒業したのちに海外のバレエ団に入るというつもりでいました。
ーそれまで続けていた他のスポーツはどうしたんですか?
バレエに夢中になって他は辞めました。学校に友達はいましたが、部活には入っていなかったのでそこまで親しい友人はいなくて。学校行事にも参加せず、バレエに夢中でしたね。
ーご家族はどういった反応だったんですか?
母と祖母は応援してくれて留学もさせてくれました。
ーなぜチューリッヒを選んだんですか?
学校の先生に誘拐されたようなものですね(笑)。僕の表彰式が終わったときすぐ目の前に来てくれて「ぜひ学校に来てくれ!」と言ってもらって、普通のコンクールの表彰式ってただの書類の交換なのですが、そんな先生に人の温かみを感じたんです。
ー留学されたとき、語学に対する不安はなかったんですか?
中学3年生の夏休みに行きましたが、英語とドイツ語、何なら日本語も勉強中というそんな感じでした。とにかくバレエがしたくて日本で勉強している場合じゃないと思っていたので、言葉ができない怖さなんて留学の楽しみに比べたら感じてなかったです。
ー留学先での日常スケジュールは?
朝の9時からお昼まで英語の勉強をして、ランチを食べたあとにバレエ学校に移るという流れです。
ーチューリッヒの学校はいかがでしたか?
教育、つまり人を育てることに対する取り組みや仕組みが日本とは違います。当時はまだ学校の名前に知名度があるわけではなかったですが、バレエ学校から専門学校付属という、敷居が高い教育機関への変革期でした。オリバー・マッツとシュテフィ・シェルツァーという人たちが先生として入ってきて教育内容はしっかりしていたんです。今ではローザンヌで金賞やスイスを幾つも取る名門になっています。ローザンヌで金賞を取った僕の同級生は今、パリのオペラ座で踊っています。
ースイスのバレエを取り巻く環境を教えてください。
スイスは国風的にバレエが盛んな国ではないです。富裕層で成り立っている国かつ永世中立国なので、金融や投資運用がメインでビジネスチックですし、産業面でもロレックスやチョコレートが有名です。銀行の知名度も高くてどうしても経済やビジネス面に寄りがちで、芸術に対する投資力はあったと思いますが、著名なダンサーもいなかったので一種のステータスとしてバレエが好まれていたと思います。この出演者を見たいからバレエやオペラを観に劇場へ行くというよりも、自分が劇場で良い作品を観て感動したい、そういう観劇体験をしたいと思っているお客さんが多いような印象でしたね。
ースイスの学校に在学中も、コンクールには出られていたんですね。
全日本のコンクールは、僕が留学先から帰ってきて2週間後くらいだったので、正直なところあんまり練習できてなかったです。
ースイスのレベルはどうでしたか?
高かったです。みんな基礎が染み付いているので何をしても綺麗だったんですよ。僕はポージングとポージングの間に生まれる体の動き方とかが全然綺麗じゃなくて、ポージングそのもので綺麗になろうとしていたんです。
ー留学中のつらかった思い出は?
それは踊っているときだけ忘れられていたものでもあると思うんですよね。ホームシックな自分がいたとしてもバレエのレッスンが始まれば忘れられた。だけど僕は泣き虫なわけじゃないですけどほぼ毎日泣いていて、やっぱり1人だし言葉もわからなくて伝わらない。バレエにしても自分の知っていた基礎と向こうで教わった基礎が違いすぎて、それまでやってきたもの全部を取り崩してから始めなきゃいけなかった。日本で4年間やってきたものを自分の中でゼロにして、また、何を言っているのかわからない外国人の教えることをみようみまねでビルドアップさせていくっていう作業をしました。今まで何をしていたんだみたいな感覚もありましたし、どれをとってもつらかったですね。友達は1年目からできていて、ある程度の食生活や日常のルーティンにはすぐ慣れましたけど、伝統文化みたいな本質的なところに慣れるには3年くらいかかりました。
ー留学は何年されたんですか?
スイスのバレエ学校には5年間通いました。基本的な留学では16歳くらいで上のクラスに入って2-3年で卒業するのですが、僕の場合は14歳から行っているので一番下のクラスから入って卒業するまで5年間通ったんです。
ー卒業後はどうされたんですか?
ハンガリー国立バレエ団に入団しました。日本に帰るという選択肢はなく海外のバレエ団に就職して踊ること、それだけでしたね。僕がハンガリーに決めた理由はオリバー・マッツ先生の推薦でした。そのバレエ団の芸術監督をされているタマシュ・ソリモシは先生と現役時代からの友人で、オーディションを受けに行く前からもう来ていいよという感じでカンパニーに入ることが決まっていたので、それ以外のオーディションは受けていないんです。
ーオリバー・マッツさんはどんな人ですか?
彼はバレエに対する愛情が全ての人です。真ん中にバレエへの愛情があってその量もすごいんです。生徒にもバレエ学校そのものにも作品に対してもバレエに関連するものすべてに対する愛情がすごくて、それは情熱というより愛情だと僕は思います。当時はすごくムカついたり反抗したこともたくさんありましたけど、それは全部バレエや僕に対する愛情だなと今は思います。あのとき、先生にあれだけきついことや反抗したくなるようなことを言われてなかったら、逆に今のキャリア的にここまで来られなかっただろうと思います。だから僕は先生の深い愛情に導かれてハンガリー国立バレエ団に入団しました。
ーハンガリー国立バレエ団はわかりやすく言うとどんなところですか?
僕の入団年にタマシュ・ソリモシが芸術監督になられて、方針としてそれまでほぼハンガリー人しか踊っていなかったカンパニーを国際的に、よりインターナショナルなバレエ団にすることを目指し始める変革期に入ったところでもあったんですよ。国際的なカンパニーを目指す以前は人選も自国のダンサーばかりで、よりビジネス色が強かったです。主役を務められるダンサーはほとんどがハンガリー人で彼らは公務員でした。過去に日本人女性が主役を務めた前例はあったのですが、国立のオペラ座ではアジア人の男性では僕が初めて主役を務めました。快挙だったらしいです。それは芸術監督が国際的なバレエ団にしようと変えてくれたおかげでももちろんありますが、実感はなくとも結果として事実なのでそれまでの流れを変えられたのかなと思いました。けど、それが嬉しさに繋がるところまではいかなくて、もっとこう踊りたい、もっとああしたいと役の出来栄えに対する欲の方が強くて、正直快挙なんてどうでもよかったんです。
ーバレエの主役に近付く感覚ってどういったものなんですか?
バレエ団に入ったとき、最初は「町人B」など端の役から始まります。僕の中では主役を踊っている人たちよりも上手く踊れる自信があったので、メインの場所に自分がいなければおかしいという感覚が常にありました。バレエ団は公演数が多いので土日に本番で基本的に月曜日が休みなんですけど、みんなが休んでいる間も練習をしていました。夕方や夜に一人でオペラ座のスタジオに入って隠れて練習していたんですよ。家がオペラ座のすぐそばにあって、バレエしかないという時期でした。
ーハンガリー国立バレエ団に在籍中は、髙橋さんにとってどんな時期でしたか?
髙橋裕哉としてというよりかはバレエダンサーとして一番楽しい時期だったんだと思うんです。でも目指していたプロダンサーになれても全く満足はしていませんでした。もっと上にいける、まだまだ通過点だと思っていて、踊りたい作品もたくさん出てくるのでそれに合わせてどんな風にやっていったらいいのだろうと考え続けていました。
ー2018年に日本に帰国されますよね。
日本に戻ろうと思ったのは、ハンガリー国立バレエ団は上演回数が多く有名な作品を繰り返し行うので、自分がまるで工場の流れ作業の一部になったような気がしてしまったからです。できあがっているものに対してどれだけ効率よく覚えて、どれだけ効率よくいいパフォーマンスができるかということが主になっていたので、人間味が全然ないなと思ってしまったんですよ。作品に対して、振付家の方々と一緒に作っていって振り付けのクリエーションが行われているところでバレエを踊るっていうことがゼロだったんです。既に作られた有名な作品が回ってきて、既存のものに対してどれだけ多くの役を覚えて多く公演をできるか、とそんな感じだったので、もっと新しい世界に入りたい、ステップアップしたいと思いました。別のカンパニーのバレエ団をいろいろ見たところで、モダンやコンテンポラリーは常に作られてるんですけど、クラシックバレエでクリエーションをしているところはなかったんです。これではどこにも行けないなと思っていたら、それこそ熊川哲也さんですよね。
クリエーションをしながらクラシックバレエをしているってなったらもう本当にここしかないなって。モダンやコンテンポラリーの自由すぎる動きや新しい芸術作品の作成というものよりも、僕は伝統的で高貴なクラシックバレエが好きでやりたかったんです。キャラクターとしてモダンやコンテンポラリーで表せる時代じゃない方が好きなんですよね。やっぱりモダンやコンテンポラリーの分野でも昔の作品は作られるんですが、その現れ方として衣装や立ち振る舞いがどうしても斬新なのでそこにやっぱり寄せきれない自分っていうのがいたんです。逆に言えばクラシックバレエが好きっていう自分の良さにもなっているとは思うんですけどね。
ー日本で入団したKバレエでは、プリンシパルソリストから始まったんですね?
そうですね。僕は所属や肩書きって全然気にしていないんです。でも特に日本では、肩書きや受賞歴などはメディア露出や集客にとって必要なものだと思いますね。僕は表面よりも内側の何らかの質や内容の濃さが重要だと常に思っているので纏う必要はないという考え方ですが、それはアーティストの考え方であってお客さんが見たいものとは違うかもしれないので難しいんですけどね。
ーKバレエに入団してみていかがでしたか?
想像以上でした。バレエを始めた頃、熊川さんの「白鳥の湖」とかのDVDを買って観ていたんですよ。そのカンパニーに入って、当時の自分が観ていたセットで、全てを自分が踊れるなんて考えもしないじゃないですか。すごい経験をさせていただいていて毎公演が挑戦でした。そして挑戦すると更に大きな目標ができるという繰り返しで、ダンサーとして掻き立てられるような何かがありました。僕が入団して最初の公演で、熊川さんご本人がカルメンの「ドンホセ」という役を演じていらしたんですが、そのときに初めて近距離で熊川さんが踊っているのを見たんです。国内外でスターダンサーを見たり一緒に踊ったりしてきましたが、熊川さんの格の違い、レベルの差を体感しましたね。熊川さんのドンホセを見たときに、いやなんかおかしいなと思ったんですよ。本当にすごい人たちを観て一緒に踊ってきているのに、「また何かちょっと違うものを見ているぞ!」と思って、これはどうやっているんだろうっていうドンホセだったんです。
一人のダンサーがバレエを極めてあそこまできているという感覚を超えて、僕はもっと深いものがあると思ったんです。何がここまで反映されているのかをすごく考えて逆算しました。ご本人の立場になって考えたときに、僕が見てきたスターダンサーってあくまでもバレエダンサーでしかなかったんですよ。経営やビジネスをしながら、自分一人でバレエ団を掲げ、ダンサーを集めて、自分で振りを付けた作品を作って、というダンサーはいなかった。もしかしたらルドルフ・ヌレエフがしたぐらいですけど。今のこの時代に自分でビジネスをする基盤を作りながら一人のバレエダンサーとしてもやっていく。いろんな大変なこと、苦しいこと、つらいことっていう経験をできたからこそ、それに比例してプラスに起こる幸せや有り難みっていうものの振れ幅が他のダンサーよりも広いんですよね。バレエだけをやっていたらここまでのドンホセはできないだろうなと思いました。熊川さんをみて、日本に帰ってきたのと同時にもっとビジネスにも興味を深めていきたいって思いました。
ー2021年にプリンシバルに昇格されましたね。
はい、やっとサポートをしてくださってきた方々に対する恩返しができたんじゃないかなっていうのはありましたね。ただそれだけです。
ー海外と日本のお客さんの違いはどうでしょうか?
海外でも場所によりますが日本のお客さんはすごくあたたかいですよ。自分の好奇心のままに見たいところをちゃんと見てくれているっていうよりかは、もうバレエの全てを得ようとしながら見てくれるんですよ。細かいところから全てにかけてですよね。海外の、例えばバレエが伝統としてもうすでに馴染んでいるヨーロッパ圏だと、作品の大体のストーリーみたいなものは小さい頃から習っていたり知っていたりするので流れや音楽もわかりますし、ざっくり自分の好奇心が湧くところをちゃんとおさえていて、だから効率良く作品を観られるんですよ。アメリカではいかにダイナミックで上下の差というものを作れるのかが大切で、作品のアップダウンを作ることによって拍手喝采であったり叫び声が上がったりと盛り上がりがすごいです。日本のお客さんにはいつも観に来てくださってありがとうございますって本当になっちゃいますね。海外にいたときは全然そんなになかったのに、日本に帰ってきた途端そんな風に思うようになった自分がいます。
ーカーテンコールってどんな気持ちですか?
人によると思うんですけど、僕はそもそも拍手の音があんまり聞こえないんですよ。最後が近くなるにつれてオーケストラの音もあんまり大きく聴こえなくて、オーケストラの音と自分の身体がもう一体化してる感覚です。音の大小を気にしている時点でやっぱりそれって第三者のものなんですよ。音と一緒に動いていると音量とか全然わかんなくなっちゃうんですよね。オーケストラの指揮者の井田勝大さんもそうですし、音をフィルターにすることで両者が同じに動いているんですよ。踊らないとわからないところもありますし指揮を振らないとわからないところでもあると思うんですが、僕も指揮者もお互いにそれがいつ、こういう風に来るっていうのがもうわかっているんですよね。それが合って初めて総合芸術っていうんじゃないですかね。全てを自分のものに網羅してないと統一性というのは生まれなくなります。自分が持っている人生のバックグラウンドから出るストーリーみたいな部分でもやっぱり作品の中に生きているっていうよりかは、もうここまでくると作品に生かされているみたいな感じですよね。「生きる」っていうのはあくまでも意識なのですが、「生かされている」っていうのはもうそれって作品の中で生きているんですよね。だから拍手の音もあんまり聞こえなくて、劇場と一体化している状態なのかもしれないです。
ー踊っているときは何も考えていないんですか?
あんまりもう、考えられないですね。考えながら踊ると全てをコントロールできるのでダンサーとしての寿命は長くなると思うんですよ。いつも通りに踊れる自分を作ることによって怪我はしづらくなりますし、セーブするんですよ。ただ考えるっていう動作自体が音楽と一緒に動けなくさせてしまう。音楽って聴いてから動くともうテンポが遅れてしまうんですよね。だから考えて踊るよりかはもう感じて踊らないと、いいもの、誰かに与えられるものにはならないですよね。だから練習のときから生ピアノに合わせてやっています。素晴らしいとか綺麗とか美しいというのはやっぱり、日々鍛錬されている自分のテクニカル的なものであったりフィジカル的なものであったりだと思うんですよね。でもそういうのってどちらかというとコントロールされているものだと思うんです。ただ作品や芸術っていう面ではコントロールっていうものが大前提であった上で、逆にコントロールを失わないと生の舞台で感動って与えられないと思うんですよね。終わったときにあそこで膝打っていたんだ、とかに気付くのでもう身体はボロボロです。考えないでもう全部、身体を放り投げてしまうので、ダンサーとしての寿命を考えると・・・やっぱりどうしても・・・何が起きるのかわからないので・・・短くなるんじゃないかなと思いますね。
ー主役じゃないときも同じ考えですか?
どっちかっていうと主役をやっているときの方が何も考えてないですかね。主役が中心なので他の役をやっているときはやっぱり主役に合わせないといけないんです。スペーシングの感覚やポジション取りは、いつ何が起きても対応できるという構えがないと主役以外の役はその役自体が務まらないですよ。だから主役以外の役をやっているときはいろいろ考えています。
ーパ・ド・ドゥで女性ダンサーと踊るとき相性ってあるんですか?
相性はありますね。やってみないとわからないっていう化学反応的な面はあるのですが、練習の時点でわかります。同じパートナーだとしても作品が変わったときに化学反応は起き続けています。むしろ自分たちの世界観が強まっていく一方なので、この二人は多分合うだろう、みたいなところからキャスティングされていて、踊る前から想像できているという部分もあるかと思います。
ーKバレエにはどのくらいいらっしゃったんですか?
3年4ヶ月で卒業をしました。
ーコロナで公演ができない期間はどうしていたんですか?
いろんな観点や価値観みたいなものを自分のものにしていろんな経験をすること、それは間違いなく今に繋がっていると思っています。コロナの期間っていうのは、公演ができない中でバレエに対する新しい観点が生まれた時期だったので、繋がりは間違いなくあると思います。逆にコロナの時期がなければ、距離感的な話なんですがバレエに対して一歩引いて見るということができていなかったので、そういった部分では絶好のタイミングだったんじゃないかなって。
ーどうして辞めたんですか?
『カルメン』のエスカミーリョ役からKバレエに参加させてもらって、最後にドン・ホセを踊りました。綺麗に一周できたなという区切りを一つのタイミングとして、新しいことに挑戦していく決心をしました。
ーアパレルブランドもお持ちですが、始められた理由は何だったんですか。
衣装にすごくこだわりがあるんです。自分を最大限舞台上で良く見せるためには、規定の衣装があったとしても採寸を受けて自分専用を作っていただくわけなんです。そのときでもやっぱり自分がどうしたら良く見えるのかを熟知しているので、普段着る洋服に対するこだわりも強いんです。現代の資本主義に成り立っているアパレルって規定のSMLサイズをベースに工場での量生産をしていて、そこにはこだわりが何もないなと思うし服を着せられている感じがしたんです。アパレルでは振り切っていて、今はスーツを作っています。職人さんがハンドステッチを入れ込んで仕上がるスーツって格好よくて、放つものが違うんですよ。生地の生産からスーツの完成までの数百もの工程を、人のこだわりや知識、知恵みたいなものをちゃんと保管して継承できるシステム、いいものがきちんと伝わっていくシステムを作りたいなと思ってアパレルを始めたんですよね。
だから僕がデザインしたものを着てくださいといった単純なものではなくて、職人さんが持つ知識技術の継承とそのグレードアップが重要なんです。同じ領域にいる職人さんでも海外のやり方を見るとアップデートされていっていて、知識量が増えることで何かしらの効率や生産性が上がったりしています。僕のしているアパレルは、人間にしかできない魂の通う職人さんの将来を作りたいというのがベースにあります。伝統をうまく継承していくシステムが日本にはなくて、どんどん潰されて事業が縮小して消滅してくのが今のあり方なんです。人の温かみをたくさんの人に気づいてもらいたいって思うと、どうしても生産性になってしまうので。でも伝わらないといけない人たちっていうのはやっぱりいると思うんですよね。運命的なものっていうのですかね。だから大事にしたいなと思えるようなものを本当に大事にできるのかっていうところに注力したいんですよ。
ーバレエ文化についてはどう思っていますか?
僕はもっと多くの方に観てもらいたいと思っていますがそれは結果についてであって、それに至るまでの話で言うと、トライアンドエラーの繰り返しだと思っているんです。観に来て下さるお客さんの感性と合うか合わないか、合うのであればそれは質だと思っているんです。良質なものが通じ合っているからこそ、リピーターに繋がるわけじゃないですか。ただ良質なものは量産できないものだとも思っています。僕の中では量よりも質を重視したいので、多くの方に見てもらいたいというよりかは、良さをわかって下さる方々の人口を増やしていけたらと思っています。
ーもうご自身は踊らないんですか?
モチベーションやクリエーションは踊り続けないと生まれないです。僕はバレエを踊り続けたい。それは絶対なんです。今は新しいフリーのバレエダンサー像を目指して挑戦し続けています。事業にも向き合いながら、これからの人生楽しみ実験しながら進んでいきます。もっと開放したい力がある。
髙橋 裕哉
Yuya Takahashi
スイス国立チューリッヒ・ダンス・アカデミーへの留学を経て、ブタペスト国立オペラにてダンサーとしてのキャリアをスタート。
その後、Kバレエカンパニーに入団、21年にプリンシパルへ昇格。
映画 Kバレエ カンパニー「白鳥の湖」、「シンデレラ」にて王子役を踊る。
22年 草刈民代主催 「キエフバレエ支援チャリティーBALLET GALA in TOKYO」出演。また、アジア初開催となったチャリティガラ「GLOBAL GIFT GALA in Tokyo」のオープニングを踊る。
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