紙に価値がある時代が戻ってきていると
ぼくは思います。

北原徹 #写真家 #編集者

北原さんの出身はどちらですか?

東京です。新宿の荒木町というところで生まれました。育ったのは東中野。東京から離れたことがないのよ。

どんな学生でしたか?

中学2年生で「POPEYE」に出会ってファッション好きになった。だけど原宿が怖くてね。流行には乗り切れなかったなぁ。高校時代はドロップアウト。友達はまあまあいたと思うけど。1年の担任の先生になんで勉強ってするの? ってまずそこから(笑!)。でも、知りたい。だから聞いたら「勉強したくないなら、あなた高校辞めれば?義務教育じゃないんだから」って言われて。それで何かカチンときて、勉強なんてしなくたって学校には行ってやる!いつも俺は机にいる!でも何もしない(笑)っていう奴になろうと決めて。名物野郎だよね。教科書も開かない人間だった。部活もやらずに勉強もせずに、ただ出席するだけ。でも3年生の時、政経の先生が面白い人で、同じこと聞いたら、「俺もわかんない。何かわかったら俺にも教えてくれよ。」って。その瞬間に、この人に早く会っていれば良かったって涙出てきて自分の無駄を知ってしまうんだよね。本当にその頃は無駄に多感。バリバリなのに無気力状態。エーリヒ・フロムの「自由からの逃走」とか変な本は読んでた。でも、今思えば、それが自分の正体につながっている気もする。だって、内容は忘れていたからネットで調べたら「人は制約を取り払って自由になろうとしたとき、目の前の世界と対峙することになり、耐えがたい孤独感に襲われる」って書いてあるらしく(笑)、自由だけれど孤独って今の自分だなぁとしみじみ思いましたね。ライブ行ったりとかギター弾いたり当時の焦りとかを詩に書いていた。そのお陰で今、文章が書けてるんだろうね。人に言われて書くんじゃなくて自分のために書いてた。散文詩みたいのを作ってギターで弾き語りとかしてたり。その頃から「PLEASE」作る要素みたいなのは持ってたんだろうね。

大学に進学するきっかけは?

高校時代は専門学校で良いと思っていたのよ。放送系の専門学校に行こうと思って学校説明会に行くのね。そこで真面目にいかに放送業界で働きたいって説明したの、そしたら専門学校の先生たちが君は大学に行きなさい。君の夢はここでは叶わないって言うのよ。オルグする会なのに! そこでマスコミが一番多いと言われる早稲田の政経に行ってみたいと考えたの。それで浪人。1年目は受験すること自体が無駄のような感触、2年目は感触があったんだけど受からない。でも、最後のほうで補欠とかはもらったんだけれど、決まらなくてね。結果、國學院大学と明治学院大学の二部に合格。予備校時代に国語学という学問を知って、自分は国語学をやりたいと思って、國學院大学を選んだんだ。今にして思えば、大学を学問で選んでいるって昔の自分に関心しちゃうね(爆笑)。2年に上がるとき転部試験を受けて一部になっています。

在学中に夢中になっていたことはありますか?

大学の学問には相当のめり込んだ。図書館と発表しか面白いことがないって思うくらいに。大学の教授陣全員、僕が大学院に進むと思うくらいに学校に夢中だった。卒業論文を提出した時にも教授に学会で発表してみますか? って聞かれたけどマスコミに行きたいから断ったくらい優秀な卒論だったと自負している。大学の発表をするにしても要約したり、参考文献ばっかり並べているのがよくわからなくて。どうして自分の読みとったオリジナルの考えを誰も発表しないんだろう? って思ったから、勝手に暴走して妄想膨らまして、発表したらレジュメはないのか? ってレジュメを欲しがる学生の列ができちゃって、でも単語を並べたメモはあったけれど、「ごめんなさい、レジュメって何ですか?」ってみんなに聞いちゃって、そういうところはバカなのよ、俺。

勉強の熱量はどこから来たんですか?

全部、興味。自分が面白く勉強するためには、なんだろうって言うしかなくて高校時代は無の状態みたいになっていたから吸収力もあったんだと思うのよ。4年間、勉強だけはした。かなり真面目だと思うよ。成績はほとんど優だったしね。1年で転部試験受けて合格。一部に行って返さなくて良い奨学金も貰ったしね。結局全部飲んじゃったかも(笑)。一部に転部した理由は授業時間。一部の方が完全に長いし、もうひとつはコンプレックスを無くしたかったんだよね。一部の人間が帰る時間に、二部の自分たちが通学する、その状況が好きになれなかった。自意識過剰なのよ。思いは努力をすれば跳ね返せると思うから、だから跳ね返す。褒められたことがなかったけど褒めてくれるんだよね。大学って。自由な発想を持って、オリジナルの論理を展開するだけで、みんなが褒めてくれて、格好良くなれる。もてなかったけれど、自分の満足は十分得られたな。それ以上に、高校時代の自分では考えられないこと、つまり、自分ができるとか思わなかったしやっぱり、もっと頑張ろうってなったよね。

就職活動での第一志望は?

マガジンハウス。他にもTBS、文化放送、電通、ありとあらゆるラジオ、出版、放送、広告系は受けた。100社くらい受けてとことん落とされてる(笑)。これ読んでる学生さんがいたら、教えてあげるけれど、面接のアドバイスとして面接の前に、その会社でウンコするといい。ここ俺の会社か? って思えてきて気が相当楽になる。文化放送だけはアナウンサー志望で受けた。ラジオのアナウンサーは仕事なのに下ネタ喋れるじゃん?こんな素晴らしい職業ないって。

マガジンハウスを希望するきっかけは?

國學院にはマスコミ志望者向けの塾があったの。マスコミ院友会って言うOB会。当時、出版のOBとしては嵐山光三郎さん(作家ですが、その経歴は調べてください。僕とつながります)と石関善治郎さん(当時マガジンハウスの「鳩よ!」編集長)がいたんだけど、先輩方の話を聞いてマスコミへの想いを強くするんだよね。特にマガジンハウスに憧れたのは石関善次郎さんと話していて。石関善治郎さんは、格好良いし説得力がある。國學院出身でここまで行けるんだと思ったし。もう石関善次郎になりたいって思うくらいだったのよ。

マガジンハウスにも他のマスコミも落ち、どこに行ったのですか?

青人社です。当時、渡邊直樹さんって人が青人社にいて。渡邊さんに自分の履歴書から作品みたいなのから全部送ったら、アルバイトからならいつでも来て良いよって言われたのね。アンラッキーとラッキーは表裏一体だと僕はいつも思っているんだけど。まずアンラッキー。いざ入ろうと思ったら渡邊さんは「週刊SPA!」に移ってたのよ。それで「これでマスコミへの道は全て絶たれたか!」って絶望したんだけど、当時青人社の役員だった嵐山光三郎さん(國學院大學OB)に大学の就職課の職員が電話してくれて、そうしたら、嵐山さんが「直樹が気に入ったんだったら、俺も気にいるはずだから、社長に会いに行ってみて」ってトントン拍子。とりあえず社長に会う事になったんだ。それで直接、社長と面接することになって。当時のマスコミの間では名物的に語られていた市場の2階にある会社に行って。まるで裏口っていうかトマソンみたいなドアを入って、急な階段を登るのよ。あとで知るんだけれど、元は倉庫だったんだね。青人社っていうのは学研の子会社で東急池上線の長原にあって意気揚々とした学生にしてみると良いのか?この会社って気分になるんだよね。でさ、社長が「おう、きたか、じゃあ行くぞ」って聞き取れない声で言うのよ。バウバウとしか聴こえない(笑)。で、5分くらいかな、歩いて着いた先が小料理屋!(笑)。そこで昼間っからハイペースでビール飲んでマスコミへの憧れとか話すと、僕よりも社長のほうがよく喋る(笑)。しかも、バウバウって聴き取れない(笑)。結局2時間くらいかな。ビール面接。昔からビール好きだったから、ぼくも社長もガブガブ飲んで中瓶が10本は並んでいた(笑)。それでラッキーなんだけど、結果的には、おかげで新入社員で入れたんだよね。青人社初の新入社員。仮に渡邊直樹さんがいたらアルバイトで入社する流れだったのにね。

青人社ではどんなお仕事をしていましたか?

最初は「陶芸のふるさと」って雑誌に携わりました。青人社にいる間にもマガジンハウスの中途採用を受けて、そのあといた「週刊SPA!」時代を含めて5回落ちた。青人社にいたのは2年。なん2年で辞めたのかっていうと「週刊SPA!」に移ってた渡邊直樹さんから電話が来て、会おうと。そして話をしたら、「お前をこの業界に入れてやったのは俺なんだから俺がお前のことを一番よく知ってるんだ!」って素晴らしい言葉を受けてウヒョーッ! て、それでついて行くよね。またしても酒場なんだけれど(笑)。

「週刊SPA!」には何年いたのですか?

1年。渡邊直樹さんは頭が良いし頭の中が面白い。基本的に何かを売りたいって気持ちと編集に必要な要素をほぼ持ち合わせていて、この人の下で働くって素晴らしいって思えた。「週刊SPA!」を去りたくなかったけど青人社では社員だったのに「週刊SPA!」ではフリーランスのエディター。ぼくは編集者は社員であるべきだと思っていて。責任がある以上は会社を背負ってなくちゃだめだと思うの。そんな思いもあって「週刊SPA!」にいる最中にマガジンハウスの中途採用を受けたら受かった。6回目で。

その時の渡邊さんの反応はどうでしたか?

裏切り者の名を受けてですよ。あの時ほど渡邊直樹さんが怖いと思ったことはない。社員にしなかった、こっちが悪いとは言ってくれたけどね。だからそんなに、こじれなかった。今でも仲良いしね。

なぜ、そんなにマガジンハウスに行きたかったのですか?

マガジンハウスが自分に合ってると思ってただけかもしれない。ずっとマガジンハウスの本を作りたいと思ってたから。役員面接の時「マガジンハウスには雑誌がない」って言っちゃったのよ。まあ、本気でそう思っていたんだけれど。そしたら、当時の副社長が激怒しちゃって。よく入れたよね。マガジンハウスなのに雑誌がないと言う男をよく入社させた! あっぱれマガジンハウスですよ。入社後に人事に言われたけど2回だめだったら縁がないと思うのが普通の人間だよって。6回も受ける奴がいるとは思わなかった。って言われた(笑)。おそらく今でもマガジンハウスの最長不倒記録なんじゃない???使い方間違っているか!?(笑)。

入社後は、どの雑誌に携わったのですか?

「an・an」ですね。広告収入日本一の雑誌がマガジンハウスにあったの、それが「an・an」だったのよ。その場所に行く、そこで働くというは自分の体験で必要なことだと思ったし経験できないことだしね。

「an・an」の当時の編集部はどんな雰囲気でしたか?

当時はピリピリしてたよね。だけれど、そのピリピリが面白かった。6人で3班で回してたし(週刊誌なので、1ヶ月に一冊以上つくるのです)本としての密度があって良かったと思ったな。労働組合が強くて人員を増やして4班になったけどね。僕は3班が良かった。良い緊張感と編集部の一体感が好きだったな。ファッション誌そして大衆誌でやらなきゃならないこと全てを勉強したんだと思うよね。「an・an」には8年くらいいたかな。

その後「POPEYE」に移動するのですね?

「POPEYE」に行ったのは自分の意思だった。「POPEYE」に行った当時は月2回でまだ版が小さい頃。僕が「POPEYE」に入ってから3人編集長が変わって売れなくなって行くんだよね。僕は編集長って年功序列的に上がってなるものじゃない、階級じゃないないんだって今でも思っている。今の二世議員もなるべくしてなっているのか甚だ疑問だけれど、政治家も編集長もなるべき人がいる。そういう人しかやっちゃいけない気がするんだよね。編集長は残酷なほど才能だと思うんだ。扱うものによって本によって違うんだけど、にわか博士じゃないとだめ。急に何かの分野で博士になる。瞬間湯沸かし器みたいに何かに夢中になってしまう人がなるべき人だと思うんだ。

「POPEYE」はどうでしたか?

楽しいから一生懸命やってたよね。仕事始めた20代の頃からずっと思っているんだけれど、結局自分は趣味で仕事をしているわけではない。だけれど、仕事はやっぱり趣味なんだよって。というか仕事以外に趣味がないし、趣味っぽいことも仕事にしちゃっているんだよね。ほとんど(笑)。公私混同というよりは「私公混同」かもね。自分を消して仕事するのが編集者だと思っているし。「POPEYE」も8年くらいやってたけれど、遊び感覚でできたのが嬉しかったかもしれない。とはいえ、平気で編集長以下全員いる編集会議で「売れない雑誌作るのやめましょうよー!」とか言っちゃうタイプ(面接の時から変わらないか!)。副編集長になった時に自分が中心になって大改造した。それでリニューアル前の最終号とリニューアル号をわずかな時間で2冊、がーっと作ったのね。あんまり他の社員に任せずに。それをやると僕が何をしたいか伝わるじゃん。戦略があって「POPEYE」も大判にしたし広告を取りに行く手段をたくさん考えた。販売部には僕から「MEN’S NON-NO」のライバル誌として横に置いて欲しいって書店に言って欲しいと伝えた。「MEN’S NON-NO」の横に置くことによって必ず売れますからって言ってたの。そしたら部数も伸びて。「MEN’S NON-NO」に対抗するためにタレント表紙は絶対やらないって決めたの。差別化の意味も含めてね。例えば「MEN’S NON-NO」にタレントが出たら「POPEYE」に出るのは1,2号遅れて出る。同じ号に出ることはないんだから2番にしか見えないじゃん!だったら、ファッションを見せたいから毎回、ハーフモデルを表紙にするって決めた。このスタイルの一番に仕立て上げれば良いわけよ。広告部にも「MEN’S NON-NO」より少しハイファッションに行くからって言って実際に広告収入も増えていったんだよね。めちゃくちゃ忙しかったけれど、めちゃくちゃに楽しかったな。

「POPEYE」の後はどこに行かれたんですか?

その後は書籍部に移動してリリー・フランキーさんの本作ったり。でも書籍はあんまり合わなかったなー。あくまでも雑誌編集者なのよ、良くも悪くも。だからエディターじゃなくてマガジニストを名乗っている。その後はどうしても行きたかったっていうのもあって販売部に。販売部の仕事って自分では勉強できないから。本って、流通含めて再販制度とか販売の方法がかなり特殊だから、一度学んでおきたいと思ってたんだ。日販とかトーハン(本の流通の要、取次と呼ばれる会社)にも行ってみたくて。そのおかげで「PLEASE」を一人で販売までできているのかもしれない。そのお陰もあるし。何でも勉強ですよね。

写真はいつから撮り始めたんですか?

最初に買ったカメラを申し上げるとローライフレックスです。買った理由は「週刊SPA!」の時に篠山紀信さんの担当をしていまして。篠山さんが栗尾美恵子さんをローライフレックスで撮影することがあって、それがあまりにも印象的で感動して手に入れました。最初は写真を撮るという発想が全くなかったんだよね。自分で画角を考えるとかもしなかった。写真は好きだったけど撮るのはプロがいるって感覚。「an・an」時代も撮る練習はしていた。その間に35mmとか色々カメラは手に入れて。「POPYE」時代時代になってファッションページをどんどん自分で撮ったんだよね。自分が担当した最後の号ではDiorのタイアップも撮影したしね。なぜカメラマンまでやったのか、というと例えば10人好きなカメラマンがいたら11人目は自分っていう選択肢があっても良いんじゃないかな? とね。好きでもない写真を撮るカメラマンと撮影するより、尊敬できるカメラマンと仕事をする。それができないなら自分が撮るって感じかな。

カメラマンの時はRay and LoveRock として活躍していますが、お名前の由来は何ですか?

Rrosemaryさんと二人で撮影してたら「北原さん、Raymond Lovelockって知ってる?」って言われて。元々、Ray and Coverっていうのを文章書く時に使っていてレイモンド・カーヴァーって作家も好きだし、なんか、かっこいいって思ってRay and LoveRockにその場で決めたんだよね。偶然とか大好きだから。Rrosemaryさんは人生で何回も出てくる人。初めての写真展も宮下貴裕さんとRrosemaryさんと僕でやったしね。

「PLEASE」を作ったきっかけは何ですか?

じり貧みたいもんですよ。どっかの会社から何か作れないかなって思ったときに僕はあんまりプレゼンテーションも上手じゃないし。結局「POPEYE」の時も編集長じゃなかったから売った事実あってもそれがアピールできない。何か作る、そのためにお金が欲しいと思ってやってんのになーと。矛盾を解決したくて、じゃあ自分で作るしかないのかなーって悩んでいたんだよね。それでも頭の中には大橋歩さんの「アルネ」っていう雑誌があって。それは彼女がアートディレクションもやり文章も書き写真もイラストも描く。とにかく何でもやる。本当に全て一人の力でやっている素晴らしい雑誌があって、一人でも作れないことはないんだなってことは頭にあったんです。でもそれはまだ点だったんだ。点であるんだけど線にはなっていなかった。でもあるとき、人から誘われて新宿二丁目に行ったのよ。二丁目で人を待つ時、僕はロックバーの DMX って所しかなくて。行ったらお客さんが僕一人だったんだけど、入ったらショーケン(萩原健一さん)をガンガンかけてたんだけれど、僕に合わせてなのかマスターがなぜか唐突にトッド・ラングレンをかけてくれたのよ。マスターが「北原くんさ、トッド・ラングレンって知ってる? なんでも一人でやるんだよ。」って言われたのよ。当時、名前くらいしか知らなかった。でも、その音とその話を聴いた瞬間に一気に全部、線を超えて、面になった。点が線になるどころじゃなくて。俺はカメラもやるしスタイリングもできるし文章も書くし、できるじゃん一人で!トッド・ラングレンがアルバム作る感覚で雑誌を作っちゃえば良いんだって思ったんだよね。その時にもう 「PLEASE」は多分できていたんだよね。

「PLEASE」を始める際、各ブランドに協力をお願いする時にしたことはありますか?

その頃はもうカタログとかのファッション写真は撮っていて、それらをいっしょくたにまとめて自分で切り貼りして作った「PLEASE」の0号。それを持って尊敬するデザイナーのブランドのプレスに持って行ったんだ。熱意が伝わったんだと思う。

「PLEASE」の基本的な考え方は何ですか?

「POPEYE」をやっている時には日本の中で、どこにもないものを作りたいと思って作って来たんだ。日本のカタログ誌的な作り方よりは少しでも世界レベルを目指したいって。でも、人がたくさんいるとエッジがなくなっていって、丸くなるじゃない?そんな感触があって、外国人が個性を大事にするっていうけれど、日本人は全くその逆でみんなでっていう全体が好きなものを選ぼうとする。だけれど、それって本当に好きな人がいるのか?って僕は思うんだよね。何かに特化しているほうが好きな人と嫌いな人を分別できるというか。だから、自分のコンセプトはこれ! って思った方が潔い良いものができるし、この雑誌は大衆に売れる、という感じ方もあると思うけれど、むしろ少なくてもファンがいるくらいの感覚で作ったほうがまっすぐで良いかな、と。「PLEASE」の枷は切り抜きがない、それからできる限り裁ち落とししかしたくないこの2点ぐらいだね。ただ、言葉遊びみたいなものかもしれないけれど、「雑誌」の「雑」にこだわっているつもり。つまり「雑」誌なんだよね。「雑」とは何か? 雑とは混ぜこぜであると同時にフリーな状態なんだと。あ、結局ここでも自由でいることがでてきちゃうね(笑)。話逸れたけれど、雑とは混在であり自由であるわけです。だから、モードからカジュアルまで、ランウェイから古着まで、おしゃれから伝統工芸まで、アートから博物館、雑貨まで、高級品からチープなものまで、ファションからフードまで、性別もフリーであり、人種もフリー、年齢もすべてがフリーだと思って作っています。衣食住のすべてが詰まった「雑」然、「雑」感、「雑」記があるくらいにしか考えていないかな。
だからこそ、カタログ誌ではなく、雑誌、それもファッション誌として成り立っているのだと考えています。
「PLEASE」はなるべく明るい写真って決めて。明るくクリーンで朗らかな写真みたいな、だけどかっこいい写真を撮りたいよね。これしかできないからやってるだけであって、やるしかない。

売れると思いましたか?

響くとは思ったけど売れるかは、わからなかった。インディーズマガジンってよく話が出るんだけれど、だいたい3号で辞めちゃうって話があるんです。失敗してる理由はお金。結局、借金してまでやる覚悟がないからなのか、仲間割れしちゃうのか。良くも悪くも一人だから仲間割れがないというか、仲間割れをしたくてもできない。あ〜〜〜〜! エーリッヒ・フロムじゃん。自由になると孤独だわ!

今はビジネスとして成立しているんですか?

14号目も、もうすぐ出すけど正確にはビジネスとしては成立はしていないかな。現実問題のお金のことはカタログを作る仕事とか退職金とかを食いつぶして作っている。よく生きてたなぁーって思うよね。自分のやっていることがもう少しビジネスになればなって思う。だけれど止める気は無い。掴んだ自由から逃走するよりは、自由の中で足掻きたい。それが前向きってことじゃない?

「PLEASE」は主に北原さんが撮影をしていますが、他のカメラマンも参加させる考えはありますか?

全然、ありますよ。ただ、僕は OK だけどカメラマンが入るとお金がかかるんだよね。だから頼めないだけよ。いろんな人が「PLEASE」見てギャラ無しでいいからやっても良いよって言ってくれるけど……でもね、申し訳ないけれど、ギャラ? って思ってしまう。撮影ってやりたいことをやるのにどれだけお金がかかるのかというところまで頭がいかないのかな?と思ってしまう。カメラマンはその環境を理解している人が少ない気がしますね。スタジオ代にしても、ロケバス代にしても、モデル代にしても、なんでもそうなんだけれど。「節約」とか「もったいない」とか主婦目線でぼくは撮影を組んでいる(笑)。だから、作品撮りの延長みたいに考えてくれる人がいたら、いつでも! って感じですよ。

「PLEASE」が紙媒体にこだわる理由は何ですか?

雑誌の印刷費で web のプラットフォームが作れるのはなんとなくわかっているんです。でも紙でわざわざやる、それでも止めないのは、ただ好きだからなんだろうね。紙の匂い。紙っていうと二次元って思われるけれど、僕にとっては三次元であり、「無限」でもあると思う。縦にしたり、横にしたり、めくったり、閉じたり、あらゆる方向がある気がしている。今まさに紙の価値が戻ってきていると思うんだ。仮に10年頑張れたら紙に載ってることの価値がとてつもなく上がっている時代が来るって信じている。今はとにかく続けることが大事。好きなもの、やりたいこと、思いついたことは同列で夢中になっているしね。若い子たちに言いたいのは「十把一絡より唯一無二のほうが恰好いいじゃん!」ってことかな。こういうインタビューしていただいて気づくことがあるんだけれど、なんかさ、幼稚園児みたいなのよ。なんでも良いから見つけたものを「ああいうことがあって、こういうことがあってね」ってお母さんにずっと喋っている子、それがぼくなんだと思いますね。

北原 徹(きたはら・とおる)
(株)PLEASE代表。マガジニスト/フォトグラファー/文筆家。
「週刊SPA!」「an an」「POPEYE(副編集長)」「クロワッサン」など数々の雑誌に参加。現在は雑誌「PLEASE」を創刊し、写真が撮れる編集者として雑誌、アパレルのカタログなどの制作をする。フォトグラファー Ray and LoveRock としても活動。

Photo:Makoto Nakamori, Masaou Yamaji
Video:Ryo Kamijo
Text:Makiko Namie, Makoto Nakamori

紙に価値がある時代が戻ってきていると
ぼくは思います。

北原徹 #写真家 #編集者

北原さんの出身はどちらですか?

東京です。新宿の荒木町というところで生まれました。育ったのは東中野。東京から離れたことがないのよ。

どんな学生でしたか?

中学2年生で「POPEYE」に出会ってファッション好きになった。だけど原宿が怖くてね。流行には乗り切れなかったなぁ。高校時代はドロップアウト。友達はまあまあいたと思うけど。1年の担任の先生になんで勉強ってするの? ってまずそこから(笑!)。でも、知りたい。だから聞いたら「勉強したくないなら、あなた高校辞めれば?義務教育じゃないんだから」って言われて。それで何かカチンときて、勉強なんてしなくたって学校には行ってやる!いつも俺は机にいる!でも何もしない(笑)っていう奴になろうと決めて。名物野郎だよね。教科書も開かない人間だった。部活もやらずに勉強もせずに、ただ出席するだけ。でも3年生の時、政経の先生が面白い人で、同じこと聞いたら、「俺もわかんない。何かわかったら俺にも教えてくれよ。」って。その瞬間に、この人に早く会っていれば良かったって涙出てきて自分の無駄を知ってしまうんだよね。本当にその頃は無駄に多感。バリバリなのに無気力状態。エーリヒ・フロムの「自由からの逃走」とか変な本は読んでた。でも、今思えば、それが自分の正体につながっている気もする。だって、内容は忘れていたからネットで調べたら「人は制約を取り払って自由になろうとしたとき、目の前の世界と対峙することになり、耐えがたい孤独感に襲われる」って書いてあるらしく(笑)、自由だけれど孤独って今の自分だなぁとしみじみ思いましたね。ライブ行ったりとかギター弾いたり当時の焦りとかを詩に書いていた。そのお陰で今、文章が書けてるんだろうね。人に言われて書くんじゃなくて自分のために書いてた。散文詩みたいのを作ってギターで弾き語りとかしてたり。その頃から「PLEASE」作る要素みたいなのは持ってたんだろうね。

大学に進学するきっかけは?

高校時代は専門学校で良いと思っていたのよ。放送系の専門学校に行こうと思って学校説明会に行くのね。そこで真面目にいかに放送業界で働きたいって説明したの、そしたら専門学校の先生たちが君は大学に行きなさい。君の夢はここでは叶わないって言うのよ。オルグする会なのに! そこでマスコミが一番多いと言われる早稲田の政経に行ってみたいと考えたの。それで浪人。1年目は受験すること自体が無駄のような感触、2年目は感触があったんだけど受からない。でも、最後のほうで補欠とかはもらったんだけれど、決まらなくてね。結果、國學院大学と明治学院大学の二部に合格。予備校時代に国語学という学問を知って、自分は国語学をやりたいと思って、國學院大学を選んだんだ。今にして思えば、大学を学問で選んでいるって昔の自分に関心しちゃうね(爆笑)。2年に上がるとき転部試験を受けて一部になっています。

在学中に夢中になっていたことはありますか?

大学の学問には相当のめり込んだ。図書館と発表しか面白いことがないって思うくらいに。大学の教授陣全員、僕が大学院に進むと思うくらいに学校に夢中だった。卒業論文を提出した時にも教授に学会で発表してみますか? って聞かれたけどマスコミに行きたいから断ったくらい優秀な卒論だったと自負している。大学の発表をするにしても要約したり、参考文献ばっかり並べているのがよくわからなくて。どうして自分の読みとったオリジナルの考えを誰も発表しないんだろう? って思ったから、勝手に暴走して妄想膨らまして、発表したらレジュメはないのか? ってレジュメを欲しがる学生の列ができちゃって、でも単語を並べたメモはあったけれど、「ごめんなさい、レジュメって何ですか?」ってみんなに聞いちゃって、そういうところはバカなのよ、俺。

勉強の熱量はどこから来たんですか?

全部、興味。自分が面白く勉強するためには、なんだろうって言うしかなくて高校時代は無の状態みたいになっていたから吸収力もあったんだと思うのよ。4年間、勉強だけはした。かなり真面目だと思うよ。成績はほとんど優だったしね。1年で転部試験受けて合格。一部に行って返さなくて良い奨学金も貰ったしね。結局全部飲んじゃったかも(笑)。一部に転部した理由は授業時間。一部の方が完全に長いし、もうひとつはコンプレックスを無くしたかったんだよね。一部の人間が帰る時間に、二部の自分たちが通学する、その状況が好きになれなかった。自意識過剰なのよ。思いは努力をすれば跳ね返せると思うから、だから跳ね返す。褒められたことがなかったけど褒めてくれるんだよね。大学って。自由な発想を持って、オリジナルの論理を展開するだけで、みんなが褒めてくれて、格好良くなれる。もてなかったけれど、自分の満足は十分得られたな。それ以上に、高校時代の自分では考えられないこと、つまり、自分ができるとか思わなかったしやっぱり、もっと頑張ろうってなったよね。

就職活動での第一志望は?

マガジンハウス。他にもTBS、文化放送、電通、ありとあらゆるラジオ、出版、放送、広告系は受けた。100社くらい受けてとことん落とされてる(笑)。これ読んでる学生さんがいたら、教えてあげるけれど、面接のアドバイスとして面接の前に、その会社でウンコするといい。ここ俺の会社か? って思えてきて気が相当楽になる。文化放送だけはアナウンサー志望で受けた。ラジオのアナウンサーは仕事なのに下ネタ喋れるじゃん?こんな素晴らしい職業ないって。

マガジンハウスを希望するきっかけは?

國學院にはマスコミ志望者向けの塾があったの。マスコミ院友会って言うOB会。当時、出版のOBとしては嵐山光三郎さん(作家ですが、その経歴は調べてください。僕とつながります)と石関善治郎さん(当時マガジンハウスの「鳩よ!」編集長)がいたんだけど、先輩方の話を聞いてマスコミへの想いを強くするんだよね。特にマガジンハウスに憧れたのは石関善次郎さんと話していて。石関善治郎さんは、格好良いし説得力がある。國學院出身でここまで行けるんだと思ったし。もう石関善次郎になりたいって思うくらいだったのよ。

マガジンハウスにも他のマスコミも落ち、どこに行ったのですか?

青人社です。当時、渡邊直樹さんって人が青人社にいて。渡邊さんに自分の履歴書から作品みたいなのから全部送ったら、アルバイトからならいつでも来て良いよって言われたのね。アンラッキーとラッキーは表裏一体だと僕はいつも思っているんだけど。まずアンラッキー。いざ入ろうと思ったら渡邊さんは「週刊SPA!」に移ってたのよ。それで「これでマスコミへの道は全て絶たれたか!」って絶望したんだけど、当時青人社の役員だった嵐山光三郎さん(國學院大學OB)に大学の就職課の職員が電話してくれて、そうしたら、嵐山さんが「直樹が気に入ったんだったら、俺も気にいるはずだから、社長に会いに行ってみて」ってトントン拍子。とりあえず社長に会う事になったんだ。それで直接、社長と面接することになって。当時のマスコミの間では名物的に語られていた市場の2階にある会社に行って。まるで裏口っていうかトマソンみたいなドアを入って、急な階段を登るのよ。あとで知るんだけれど、元は倉庫だったんだね。青人社っていうのは学研の子会社で東急池上線の長原にあって意気揚々とした学生にしてみると良いのか?この会社って気分になるんだよね。でさ、社長が「おう、きたか、じゃあ行くぞ」って聞き取れない声で言うのよ。バウバウとしか聴こえない(笑)。で、5分くらいかな、歩いて着いた先が小料理屋!(笑)。そこで昼間っからハイペースでビール飲んでマスコミへの憧れとか話すと、僕よりも社長のほうがよく喋る(笑)。しかも、バウバウって聴き取れない(笑)。結局2時間くらいかな。ビール面接。昔からビール好きだったから、ぼくも社長もガブガブ飲んで中瓶が10本は並んでいた(笑)。それでラッキーなんだけど、結果的には、おかげで新入社員で入れたんだよね。青人社初の新入社員。仮に渡邊直樹さんがいたらアルバイトで入社する流れだったのにね。

青人社ではどんなお仕事をしていましたか?

最初は「陶芸のふるさと」って雑誌に携わりました。青人社にいる間にもマガジンハウスの中途採用を受けて、そのあといた「週刊SPA!」時代を含めて5回落ちた。青人社にいたのは2年。なん2年で辞めたのかっていうと「週刊SPA!」に移ってた渡邊直樹さんから電話が来て、会おうと。そして話をしたら、「お前をこの業界に入れてやったのは俺なんだから俺がお前のことを一番よく知ってるんだ!」って素晴らしい言葉を受けてウヒョーッ! て、それでついて行くよね。またしても酒場なんだけれど(笑)。

「週刊SPA!」には何年いたのですか?

1年。渡邊直樹さんは頭が良いし頭の中が面白い。基本的に何かを売りたいって気持ちと編集に必要な要素をほぼ持ち合わせていて、この人の下で働くって素晴らしいって思えた。「週刊SPA!」を去りたくなかったけど青人社では社員だったのに「週刊SPA!」ではフリーランスのエディター。ぼくは編集者は社員であるべきだと思っていて。責任がある以上は会社を背負ってなくちゃだめだと思うの。そんな思いもあって「週刊SPA!」にいる最中にマガジンハウスの中途採用を受けたら受かった。6回目で。

その時の渡邊さんの反応はどうでしたか?

裏切り者の名を受けてですよ。あの時ほど渡邊直樹さんが怖いと思ったことはない。社員にしなかった、こっちが悪いとは言ってくれたけどね。だからそんなに、こじれなかった。今でも仲良いしね。

なぜ、そんなにマガジンハウスに行きたかったのですか?

マガジンハウスが自分に合ってると思ってただけかもしれない。ずっとマガジンハウスの本を作りたいと思ってたから。役員面接の時「マガジンハウスには雑誌がない」って言っちゃったのよ。まあ、本気でそう思っていたんだけれど。そしたら、当時の副社長が激怒しちゃって。よく入れたよね。マガジンハウスなのに雑誌がないと言う男をよく入社させた! あっぱれマガジンハウスですよ。入社後に人事に言われたけど2回だめだったら縁がないと思うのが普通の人間だよって。6回も受ける奴がいるとは思わなかった。って言われた(笑)。おそらく今でもマガジンハウスの最長不倒記録なんじゃない???使い方間違っているか!?(笑)。

入社後は、どの雑誌に携わったのですか?

「an・an」ですね。広告収入日本一の雑誌がマガジンハウスにあったの、それが「an・an」だったのよ。その場所に行く、そこで働くというは自分の体験で必要なことだと思ったし経験できないことだしね。

「an・an」の当時の編集部はどんな雰囲気でしたか?

当時はピリピリしてたよね。だけれど、そのピリピリが面白かった。6人で3班で回してたし(週刊誌なので、1ヶ月に一冊以上つくるのです)本としての密度があって良かったと思ったな。労働組合が強くて人員を増やして4班になったけどね。僕は3班が良かった。良い緊張感と編集部の一体感が好きだったな。ファッション誌そして大衆誌でやらなきゃならないこと全てを勉強したんだと思うよね。「an・an」には8年くらいいたかな。

その後「POPEYE」に移動するのですね?

「POPEYE」に行ったのは自分の意思だった。「POPEYE」に行った当時は月2回でまだ版が小さい頃。僕が「POPEYE」に入ってから3人編集長が変わって売れなくなって行くんだよね。僕は編集長って年功序列的に上がってなるものじゃない、階級じゃないないんだって今でも思っている。今の二世議員もなるべくしてなっているのか甚だ疑問だけれど、政治家も編集長もなるべき人がいる。そういう人しかやっちゃいけない気がするんだよね。編集長は残酷なほど才能だと思うんだ。扱うものによって本によって違うんだけど、にわか博士じゃないとだめ。急に何かの分野で博士になる。瞬間湯沸かし器みたいに何かに夢中になってしまう人がなるべき人だと思うんだ。

「POPEYE」はどうでしたか?

楽しいから一生懸命やってたよね。仕事始めた20代の頃からずっと思っているんだけれど、結局自分は趣味で仕事をしているわけではない。だけれど、仕事はやっぱり趣味なんだよって。というか仕事以外に趣味がないし、趣味っぽいことも仕事にしちゃっているんだよね。ほとんど(笑)。公私混同というよりは「私公混同」かもね。自分を消して仕事するのが編集者だと思っているし。「POPEYE」も8年くらいやってたけれど、遊び感覚でできたのが嬉しかったかもしれない。とはいえ、平気で編集長以下全員いる編集会議で「売れない雑誌作るのやめましょうよー!」とか言っちゃうタイプ(面接の時から変わらないか!)。副編集長になった時に自分が中心になって大改造した。それでリニューアル前の最終号とリニューアル号をわずかな時間で2冊、がーっと作ったのね。あんまり他の社員に任せずに。それをやると僕が何をしたいか伝わるじゃん。戦略があって「POPEYE」も大判にしたし広告を取りに行く手段をたくさん考えた。販売部には僕から「MEN’S NON-NO」のライバル誌として横に置いて欲しいって書店に言って欲しいと伝えた。「MEN’S NON-NO」の横に置くことによって必ず売れますからって言ってたの。そしたら部数も伸びて。「MEN’S NON-NO」に対抗するためにタレント表紙は絶対やらないって決めたの。差別化の意味も含めてね。例えば「MEN’S NON-NO」にタレントが出たら「POPEYE」に出るのは1,2号遅れて出る。同じ号に出ることはないんだから2番にしか見えないじゃん!だったら、ファッションを見せたいから毎回、ハーフモデルを表紙にするって決めた。このスタイルの一番に仕立て上げれば良いわけよ。広告部にも「MEN’S NON-NO」より少しハイファッションに行くからって言って実際に広告収入も増えていったんだよね。めちゃくちゃ忙しかったけれど、めちゃくちゃに楽しかったな。

「POPEYE」の後はどこに行かれたんですか?

その後は書籍部に移動してリリー・フランキーさんの本作ったり。でも書籍はあんまり合わなかったなー。あくまでも雑誌編集者なのよ、良くも悪くも。だからエディターじゃなくてマガジニストを名乗っている。その後はどうしても行きたかったっていうのもあって販売部に。販売部の仕事って自分では勉強できないから。本って、流通含めて再販制度とか販売の方法がかなり特殊だから、一度学んでおきたいと思ってたんだ。日販とかトーハン(本の流通の要、取次と呼ばれる会社)にも行ってみたくて。そのおかげで「PLEASE」を一人で販売までできているのかもしれない。そのお陰もあるし。何でも勉強ですよね。

写真はいつから撮り始めたんですか?

最初に買ったカメラを申し上げるとローライフレックスです。買った理由は「週刊SPA!」の時に篠山紀信さんの担当をしていまして。篠山さんが栗尾美恵子さんをローライフレックスで撮影することがあって、それがあまりにも印象的で感動して手に入れました。最初は写真を撮るという発想が全くなかったんだよね。自分で画角を考えるとかもしなかった。写真は好きだったけど撮るのはプロがいるって感覚。「an・an」時代も撮る練習はしていた。その間に35mmとか色々カメラは手に入れて。「POPYE」時代時代になってファッションページをどんどん自分で撮ったんだよね。自分が担当した最後の号ではDiorのタイアップも撮影したしね。なぜカメラマンまでやったのか、というと例えば10人好きなカメラマンがいたら11人目は自分っていう選択肢があっても良いんじゃないかな? とね。好きでもない写真を撮るカメラマンと撮影するより、尊敬できるカメラマンと仕事をする。それができないなら自分が撮るって感じかな。

カメラマンの時はRay and LoveRock として活躍していますが、お名前の由来は何ですか?

Rrosemaryさんと二人で撮影してたら「北原さん、Raymond Lovelockって知ってる?」って言われて。元々、Ray and Coverっていうのを文章書く時に使っていてレイモンド・カーヴァーって作家も好きだし、なんか、かっこいいって思ってRay and LoveRockにその場で決めたんだよね。偶然とか大好きだから。Rrosemaryさんは人生で何回も出てくる人。初めての写真展も宮下貴裕さんとRrosemaryさんと僕でやったしね。

「PLEASE」を作ったきっかけは何ですか?

じり貧みたいもんですよ。どっかの会社から何か作れないかなって思ったときに僕はあんまりプレゼンテーションも上手じゃないし。結局「POPEYE」の時も編集長じゃなかったから売った事実あってもそれがアピールできない。何か作る、そのためにお金が欲しいと思ってやってんのになーと。矛盾を解決したくて、じゃあ自分で作るしかないのかなーって悩んでいたんだよね。それでも頭の中には大橋歩さんの「アルネ」っていう雑誌があって。それは彼女がアートディレクションもやり文章も書き写真もイラストも描く。とにかく何でもやる。本当に全て一人の力でやっている素晴らしい雑誌があって、一人でも作れないことはないんだなってことは頭にあったんです。でもそれはまだ点だったんだ。点であるんだけど線にはなっていなかった。でもあるとき、人から誘われて新宿二丁目に行ったのよ。二丁目で人を待つ時、僕はロックバーの DMX って所しかなくて。行ったらお客さんが僕一人だったんだけど、入ったらショーケン(萩原健一さん)をガンガンかけてたんだけれど、僕に合わせてなのかマスターがなぜか唐突にトッド・ラングレンをかけてくれたのよ。マスターが「北原くんさ、トッド・ラングレンって知ってる? なんでも一人でやるんだよ。」って言われたのよ。当時、名前くらいしか知らなかった。でも、その音とその話を聴いた瞬間に一気に全部、線を超えて、面になった。点が線になるどころじゃなくて。俺はカメラもやるしスタイリングもできるし文章も書くし、できるじゃん一人で!トッド・ラングレンがアルバム作る感覚で雑誌を作っちゃえば良いんだって思ったんだよね。その時にもう 「PLEASE」は多分できていたんだよね。

「PLEASE」を始める際、各ブランドに協力をお願いする時にしたことはありますか?

その頃はもうカタログとかのファッション写真は撮っていて、それらをいっしょくたにまとめて自分で切り貼りして作った「PLEASE」の0号。それを持って尊敬するデザイナーのブランドのプレスに持って行ったんだ。熱意が伝わったんだと思う。

「PLEASE」の基本的な考え方は何ですか?

「POPEYE」をやっている時には日本の中で、どこにもないものを作りたいと思って作って来たんだ。日本のカタログ誌的な作り方よりは少しでも世界レベルを目指したいって。でも、人がたくさんいるとエッジがなくなっていって、丸くなるじゃない?そんな感触があって、外国人が個性を大事にするっていうけれど、日本人は全くその逆でみんなでっていう全体が好きなものを選ぼうとする。だけれど、それって本当に好きな人がいるのか?って僕は思うんだよね。何かに特化しているほうが好きな人と嫌いな人を分別できるというか。だから、自分のコンセプトはこれ! って思った方が潔い良いものができるし、この雑誌は大衆に売れる、という感じ方もあると思うけれど、むしろ少なくてもファンがいるくらいの感覚で作ったほうがまっすぐで良いかな、と。「PLEASE」の枷は切り抜きがない、それからできる限り裁ち落とししかしたくないこの2点ぐらいだね。ただ、言葉遊びみたいなものかもしれないけれど、「雑誌」の「雑」にこだわっているつもり。つまり「雑」誌なんだよね。「雑」とは何か? 雑とは混ぜこぜであると同時にフリーな状態なんだと。あ、結局ここでも自由でいることがでてきちゃうね(笑)。話逸れたけれど、雑とは混在であり自由であるわけです。だから、モードからカジュアルまで、ランウェイから古着まで、おしゃれから伝統工芸まで、アートから博物館、雑貨まで、高級品からチープなものまで、ファションからフードまで、性別もフリーであり、人種もフリー、年齢もすべてがフリーだと思って作っています。衣食住のすべてが詰まった「雑」然、「雑」感、「雑」記があるくらいにしか考えていないかな。
だからこそ、カタログ誌ではなく、雑誌、それもファッション誌として成り立っているのだと考えています。
「PLEASE」はなるべく明るい写真って決めて。明るくクリーンで朗らかな写真みたいな、だけどかっこいい写真を撮りたいよね。これしかできないからやってるだけであって、やるしかない。

売れると思いましたか?

響くとは思ったけど売れるかは、わからなかった。インディーズマガジンってよく話が出るんだけれど、だいたい3号で辞めちゃうって話があるんです。失敗してる理由はお金。結局、借金してまでやる覚悟がないからなのか、仲間割れしちゃうのか。良くも悪くも一人だから仲間割れがないというか、仲間割れをしたくてもできない。あ〜〜〜〜! エーリッヒ・フロムじゃん。自由になると孤独だわ!

今はビジネスとして成立しているんですか?

14号目も、もうすぐ出すけど正確にはビジネスとしては成立はしていないかな。現実問題のお金のことはカタログを作る仕事とか退職金とかを食いつぶして作っている。よく生きてたなぁーって思うよね。自分のやっていることがもう少しビジネスになればなって思う。だけれど止める気は無い。掴んだ自由から逃走するよりは、自由の中で足掻きたい。それが前向きってことじゃない?

「PLEASE」は主に北原さんが撮影をしていますが、他のカメラマンも参加させる考えはありますか?

全然、ありますよ。ただ、僕は OK だけどカメラマンが入るとお金がかかるんだよね。だから頼めないだけよ。いろんな人が「PLEASE」見てギャラ無しでいいからやっても良いよって言ってくれるけど……でもね、申し訳ないけれど、ギャラ? って思ってしまう。撮影ってやりたいことをやるのにどれだけお金がかかるのかというところまで頭がいかないのかな?と思ってしまう。カメラマンはその環境を理解している人が少ない気がしますね。スタジオ代にしても、ロケバス代にしても、モデル代にしても、なんでもそうなんだけれど。「節約」とか「もったいない」とか主婦目線でぼくは撮影を組んでいる(笑)。だから、作品撮りの延長みたいに考えてくれる人がいたら、いつでも! って感じですよ。

「PLEASE」が紙媒体にこだわる理由は何ですか?

雑誌の印刷費で web のプラットフォームが作れるのはなんとなくわかっているんです。でも紙でわざわざやる、それでも止めないのは、ただ好きだからなんだろうね。紙の匂い。紙っていうと二次元って思われるけれど、僕にとっては三次元であり、「無限」でもあると思う。縦にしたり、横にしたり、めくったり、閉じたり、あらゆる方向がある気がしている。今まさに紙の価値が戻ってきていると思うんだ。仮に10年頑張れたら紙に載ってることの価値がとてつもなく上がっている時代が来るって信じている。今はとにかく続けることが大事。好きなもの、やりたいこと、思いついたことは同列で夢中になっているしね。若い子たちに言いたいのは「十把一絡より唯一無二のほうが恰好いいじゃん!」ってことかな。こういうインタビューしていただいて気づくことがあるんだけれど、なんかさ、幼稚園児みたいなのよ。なんでも良いから見つけたものを「ああいうことがあって、こういうことがあってね」ってお母さんにずっと喋っている子、それがぼくなんだと思いますね。

北原 徹(きたはら・とおる)
(株)PLEASE代表。マガジニスト/フォトグラファー/文筆家。
「週刊SPA!」「an an」「POPEYE(副編集長)」「クロワッサン」など数々の雑誌に参加。現在は雑誌「PLEASE」を創刊し、写真が撮れる編集者として雑誌、アパレルのカタログなどの制作をする。フォトグラファー Ray and LoveRock としても活動。

Photo:Makoto Nakamori, Masaou Yamaji
Video:Ryo Kamijo
Text:Makiko Namie, Makoto Nakamori