髙橋孝之 #染色家
ーお生まれはいつですか?
昭和22年(1947年)生まれです。
ー幼少期はどんな環境で過ごされましたか。
戦後復興の真っ只中でした。ちょうどベビーブームのタイミングです。とにかく子どもが多かった。戦中派と戦後生まれの子どもが入り混じって生活していました。僕が生まれ育った高田馬場は育ちが良くなくて(笑)。悪ガキの集まりでした。
ー幼少期印象に残っていることはありますか?
親父が新しいもの好きだったので、この辺りの地域でテレビを買ったのはウチが最初でしたね。テレビ台出して近所の人たちと力道山をみましたよ。カラーテレビも東京五輪のタイミングで出たのですぐに買っていました。
ーお父さんも染め職人なのですよね?
そうです。親父は引き染めの職人でした。職人気質のものすごくおっかない親父で、冗談なんて聞いたことないです。子どもに対して笑いをとるという発想がなかったんじゃないですかね。
ー髙橋さんも自然と染めの世界に入ったのでしょうか?
染物屋という環境の中で育っていたので、親父の仕事は継いでいくんだろうなと漠然と思っていました。洗脳なんですかね(笑)。体育の先生になってみたいと思う時期もありましたが継ぐことに甘えて勉強もほとんどしていなかった。「学校には行かなくてもいい」という親父の言葉もあり、高校も受かれば行こう、くらいの気持ちでした。親父は早く仕事を始めて欲しかったみたいですね。
ー子どもの頃から仕事の手伝いはしていたのですか?
仕事の手伝いはしていました。門前の小僧じゃないですけど、学校から帰ると当たり前に手伝い。昔は休日も月に2回しかなかったですし、職人には祭日の休みもなかった。
ー高校卒業後、すぐに弟子入りなさったんですか?
そうです。18歳で親父に弟子入りしました。
ー学生から職人になるときの苦労はありましたか?
2、3年は修行に集中できていませんでした。仕事はするんですけど終わったらすぐに遊びに行っちゃう。そうこうしているうちに年子の弟にも技術的に追い抜かれていました。なんとなく仕事をこなしている毎日でした。
ー独立を決めたきっかけは?
幼友達で琴を扱う仕事をしている友達がいたんです。そいつが26歳ぐらいの時に独立して、早いんじゃない?っていう話をしたんだけど、いつまでも使われてもしょうがないって。それに刺激されました。あとはオイルショック。親父にもお前らの給料払うのも大変なんだみたいな愚痴聞かされたので、じゃあ独立してみようと。工場は建てられないので、工場を借りて独立採算制でやらしてくれと。僕の仕事は僕で取ってくるからって親父に談判したんです。殺されるかと思いましたが、やれるもんならやってみろって。
独立後は仕事をもらうためにどんなことをすればいいのかを考えました。問屋からどうやって仕事を出させるか。知っている全ての問屋に、僕の得意技を持っていってアプローチをかけました。眠れない日もありましたよ。今月は全然仕事がない、親父にどうやって家賃払おうかと考えたり。もっと効率のいい商売ってあるんじゃないかなって片隅では思ってたんだけど、独立した途端にその他で稼ぐ方法は全然ないっていうのはわかったわけですよ。僕には染めしかない。どうやって僕の染めを仕事にしてお金にするか。
ー独立直後は大変ですよね。その中で支えはありましたか?
たまたま同い年の問屋がいたんです。そいつとパチッと波長があって組んで進んでいけました。僕の技術を面白がって、それに見合う仕事を取ってきてくれたんです。
ー問屋とはどんな存在なのですか?
昔は問屋の注文を受ける、技術を見せる。それだけでお金になっていたんです。良い点は安定して仕事がある。そうすると人も雇える。一生懸命やっていれば家も建てられるし家族も養える。やればやるほどお金になった。雇っている職人も全力でやるし、親方はそれに見合う仕事を、問屋から出してもらう。そんな関係性でした。いい時代といえばいい時代ですけどね。今になってわかりますが、問屋からの染め代は非常に厳しかったと思います。挨拶がわりに安くしろ!と(笑)。
独立前は親父と兄が問屋と戦ってくれていたので、僕は技術を研鑽することに集中できました。でも、それは商売ではない。独立後は商売もしなくてはならないので苦労しました。言い換えればオイルショック以前、僕らは問屋の言いなりで表現してきました。けれどだんだんそれでは成り立たなくなった。「待ち」から「攻め」の商売に変えなきゃいけない。そこで業界に向けて新作の発表会をするために、職人たちに声をかけて「新樹会」というグループを作って作品展をやりました。問屋や小売り屋に対して、まず我々の技術を知ってもらう。その辺りから公募展にもチャレンジするようになりました。もちろん、昔から公募展の存在は知っていました。ですが、そんなものは道楽者が出すもの。職人は出さない、その暇がないのが職人。そんな風に決めつけていたんです。公募展で知ってもらう大切さにも気がついたんですね。今は全部、僕のリスク。年間通じて白生地をいくつ染めるか、どんなものを中心に染めようか。公募展にもチャレンジする。自分自身の鎧兜を身につけていく。肩書きがないとただの職人です。僕はただの職人じゃない!と叫んでも、他人が評価しないと叫んでいるだけになる。手っ取り早いと思ったので公募展には積極的に出しました。自己満足で完結していたものづくりから、他人の評価を受けるものづくりへ変えていく。どんなものが世間で素晴らしいと言われてるのかっていうのを、その頃から研究し始めました。
ー新樹会はどのようなメンバーで始められたんですか?
先輩や後輩。問屋の紹介もあって集めました。
ー日本染織作家協会や東京都工芸染色協同組合の組織で理事や会長をしていらっしゃいますね。
昔は組合が、ある程度問屋や小売屋のパイプ持ってたんです。仕事を持っていた。組合に入れば新しい出会いがあるというような魅力があったんです。親父は一匹狼みたいなもんだった。そんな親父を見ていたんで僕も組合には入っていなかったんです。作品をつくり始めてからいろいろな組織を知り出して、40歳過ぎて初めて新宿区の後継者育成の会という組織に入りました。そこでやっているうちに東京都の組合に声をかけられて入りました。1人じゃできないことでも、同じ方向を向いてる人間が何人か集まると現実化する。そういう組織の面白さは感じていたので。目立ちたがり屋だから(笑)、副会長から会長も務めました。面白さと同時に、組織の難しさも体験しました。国は伝承されていくものだけを保護する。伝産法で守ろうとする。ですがデジタル技術も進歩していますから、同じことを続けていたら飯が食えない。デジタル技術も受け入れて先に進む。若い人はすぐにできるんですが同世代や先輩たちは受け入れられない。その中でえらく苦労しました。
ー流通に関してはどう思っていますか?
僕ら染屋は製造業です。商品になるには大きな流れは製造業→問屋→小売屋です。その中で細かい問屋がたくさんあります。呉服業界はダイレクトにいけば安いんですが、様々な場所を経由していくので値段が高くなる。上代の不信感は昔からありましたが、今はそれが崩壊し出しています。我々、製造業は直販なんてするなと言われていました。問屋から仕事をいただいてご飯が食べられる。そんな関係はコントロールが効かなくなってきたんです。着物は昔からある伝統工芸品。一部の問屋はよく勉強して製造業といい関係性を築くんです。ですが大概はこれ売るといくらになる。そろばんの弾きかたしか知らない。そんな問屋が多いですよ。
ー東京にはどのように友禅が広まったんですか?
僕の勉強してきた解釈ですが江戸時代の友禅は、ほとんど京都で作られている。東京人のお金持ちが注文して、京都で作らせたものを江戸友禅と称していた。流通の難しさから東京で染めた方が早いってことで三越の前身、越後屋が京都の職人を連れてきて東京でも職人が育ってきた。友禅には水が不可欠なので神田川沿いの高田馬場や中井に染屋が集まってきた。そんな大きな流れです。友禅という言葉も宮崎友禅からきているらしいけど、それも本当かわからない。オフロードバイクが趣味で時々走りに行っているんですが、そこで出会った仲間の丸山伸彦さんが「友禅の虚像と実像」って論文を書いていて読ませてもらったけど面白かったですよ。
ー染めの道具や材料はどこで手に入るんですか?
専門店が神田や高田馬場にありますが買うと高いので手作りしている道具もたくさんあります。染料を販売していたこともあります。京都の安物の友禅でよく使われてる裏染めっていうのがあるんです。染料に撥水剤を入れて直接彩色すると、糊伏(防染のりをおいて引き染する工程)を省ける。なんとなく安物の加工みたいな扱われ方をされているんだけど、僕は裏染が好きだった。その裏染を研究したときに、染料を試行錯誤して作ったんです。ロウソクに色が付いているのを見て塩基性染料を思いついた。それで裏染用の染料を開発して戸塚染めと称して売っていました。でもそれをみた京都の材料屋がもっといい酸性染料の混ざった撥水剤っていうのを開発して、一気に持ってかれちゃった。特許取っときゃよかったんですけど、そんな頭ないしね(笑)。笑い話です。
ーご自分のつくったものに対してはどういう想いを持っていますか?
頭で考えてるときは、最高なものができている。だけど実際にやり始めると、手が震える。気力、体力、全部がそこに現れてくるわけです。万に一つ想像以上のものができたっていうこともあるけども、ほとんどは次。次、次だね。この次こそは。同じ図案で描いてみても、そのときの体調や気力っていうかね。やっぱ同じもんできないですよ。若い頃は定規で描いたような正確な線が描けたけど、今は握力も無くなってきているから描けない。でもそれを生かして柔らかい線を描ける。構図は同じだけど味は別物になっちゃう。それが面白い。
ー定年がない職業で、引退など考えることあるのでしょうか?
あります。でも、やめてもやることないもんね。全て満足するものが出来上がれば辞めるかもしれないけど、そんなことはありえないからね。次へ、次へです。
ー髙橋さんは「技のデパート」と呼ばれるほど技術をお持ちですが、技術への探求心はどこからくるのでしょうか?
面白さです。僕は職人仕事があまり好きではなかったんです。かといって作品で勝負するのに友禅という基本を学んでいない。平らに染めることぐらいしか職人としての技術を持ってないかった。そんな僕が友禅の人たちに一目置かれて前に行けるようなものないか。すごく研究しました。親父に好きにせいみたいな形で遊ばせてもらったのが芸の肥やしになっています。一珍糊(小麦粉を使って染める技法)、墨流し染めはトライアンドエラーを繰り返して、なんとなくものにできた。売れている人も研究しましたよ。熊谷好博子さんという有名な人がいるんだけど、その人の木目の頭摺りを初めて知った。そうやって他の人の作品も力になった。僕もできないのかなとかね。人にはできて、僕にはできないと悔しいじゃないですか。いろいろやっているうちに、いろんな出会いがあって、商売になってる。ないものねだりを満足させることも、商売の一つの方法かな。それで技が増えていく。嫌いじゃない。
ー現代でも染めに関してアップデートはあるんですか?
あります。職人は基本的には僕しかできないっていう世界を作りたいわけ。技だけじゃなくてやっぱり材料もそう。文献というのは9割5分ぐらいは本当のことが書いてあるんだけど、あとの数パーセントは、当時の常識で文字に起こさないでいいとされた部分。口伝も補って完成するのが鍵なんだけど、読んだ通りにやるだけだと、非常に大変だなあっていってみんな終わっちゃう。その中でもおかしいな、こんなに難しいのが後世に残るわけねってしつこくやったのは僕。墨流しにしても、そのあとの数パーセントをこじ開けた。なくなってしまった技法はたくさんあります。昔ながらのやり方したら大抵なくなってしまうのは当然だなっていうぐらい難しいわけ。それを現代風にも商売的にも、生産コスト的に合うようにアレンジして復活させる。でも嘘はだめ。嘘ついて、〜技法ですと謳う奴が多すぎる。インクジェットの売り方にも疑問がある。こんな値段でこんなに綺麗に安くできるんですよ、それは手書きじゃできないでしょって言えばインクジェットのよさが出るわけです。けど業界は、インクジェットを手で書きましたっていうような売り方をするわけ。本当のことを言って夢がなくなっちゃうのも困るんだと。そんな風な嘘をついていると、業界がおかしくなってしまう。僕は技術を売っているわけで、夢を売っているわけじゃないからね。夢はお客さんが勝手に感じてくれているんだよね。
ーインクジェットの良さも認めている髙橋さんですね。
最初にインクジェットが出てきたとき、僕もすぐ見に行ったんです。当時は1m50cm幅のインクジェットプリンターが3000万円ぐらい。反物を全て染めるのに1メートル、40分かかる。墨流しは一反、30分でできる。もやぼかしと墨流しはインクジェットに勝てるなと。けどあとは全部負ける。江戸小紋、江戸更紗、友禅。すごいです。総絵羽の浴衣なんかも出てきている。振袖なんか大半はインクジェット。絵描きの人はオリジナル以外にも、例えばリトグラフで限定いくつって自身の責任の元にできるじゃないですか。あんな風にして、デザイナー的な要素を取り入れて責任持って換金できるようなシステムがあればいいと思います。反物に染めるのは機械がすればいい、絵柄が良ければお金になる、という風な感覚になってくんじゃないかな若い人たちは。
ーこれまでで、お弟子さんは何人ぐらいいらっしゃいますか。
弟子と言えるのは6人。今、商売ちゃんとしているのは4人です。修行はだいたい10年くらいです。でも10年いなさいとかってもんじゃない。自分自身で見極める。親方に言うのにドキドキするわけです。まだ早いとか言われんじゃないか?とか。僕も親父に殺されるんじゃないかっていう気持ちで独立を宣言した。弟子たちにも同じ気持ちをさせているのかな(笑)。けれど、大体熟すときに言ってきますよ。
10年も修行すれば技術はある程度は身に付く。食ってくのに大事なのは問屋と着物好きのお姉さま連中との駆け引き。着物好きの人はこだわりの人が多いですから、物を作るより大変だ(笑)。初めて作家として小売り屋さんに行ったときは緊張しまくってもう熱がでそうになったもんね。現場でお客さんとやりとりするのはどんだけ大変か(笑)。
ー髙橋さんから見て今業界的に若手はどんな感じで育ってきていますか?
厳しい。長続きしない子が多いかな。興味がある人はたくさんいます。じっくり売れる年まで修行してられないし、親方もお給料を払ってらんないし、非常に厳しいですよね。今までは親方がいて、育てながら仕事を覚えさせていたけど、今はもうできあがった人間同士のネットワークで生産力上げた方がいいです。若い人同士、いろんな人脈の中から得意なところとチョイスして横のネットワーク作る。仲間内で仕事の横投げしながら、生産力を上げる。弟子たちにはそう言っています。東京の場合は一貫生産が当たり前ですけど、京都は分業なんです。何でもできる中で、得意なところをお願いする。そういうパイプを作って、仲間内で生産性を上げるのが理想です。弟子を育てるってのはその分経済的な責任を負わなきゃならない。今の若い子には酷です。
ーこの先染めの業界はどうなっていくと思いますか?
業界は30年、40年、50年ぐらい前から、変わると言い続けていますが変わらない。流通はいらない、短縮しようっていう話が盛り上がってみたりしたけど変わらない。2兆円産業から2000億産業に下がってきているけど変わらない。いよいよコロナで虚像が削ぎ落とされた。原石小さいのがわかっちゃったんです。その原石、本当の部分で勝負できる人はこれから伸びると思います。着物の商売が全てなくなっちゃうことはないと思うんですが、やっと変わると思います。楽しみです。
ー職人の世界が変わろうとしているということですか?
職人も発表できるんです。瞬時に世界に。これは、やりようでは若い人は生き残れると思います。そんな流れを見ていると、今までの職人の世界と全然違うところで何かが芽生えてるのは感じます。我々の世代は、冥土の土産に勲章をもらっておしまいです(笑)。
ー18歳から弟子入りして今までやり続けてきて思うことはありますか?
僕の場合、面白くなってきたのは40代後半。作品づくりも、ものづくりも。出会いの面白さを教えてくれたのも40代です。60代くらいまでは一生懸命、問屋に求められるものに技術で返していく。言いたいことも言えずに理不尽にも耐えてきました。流通、問屋、小売り屋、消費者。その全てに憤りを感じてきたから。ぎゃふんと言わせるような物づくりをしよう。それだけでした。その頃から商売も面白くなってきた。今、75歳。ようやくいい意味でどうでも良くなって、達観できるようになって、更に面白くなってきた。心の声が外へもれるようになってきた?(笑)。
ー染め作家とは?
僕は作家とは思っていない。染物屋。なんでも染める。なんでも染めるっていうのは語弊があるけど。結局、職人としての根っこが残っているんです。相手の要望にどれだけの技で答えられるかっていうのが勝負所。だけど頼まれた技法を知らなければ答えられない。やり方を知らないと食っていけないし困る。うちに来れば何でもこなしてくれるっていう部分があって、そう思われるのも、気持ち良かったから。髙橋のところに行けば何でもできる。我々は技術を売る。物を売ってんじゃないんだというところに戻れば、もっと先に進める気はしています。
髙橋孝之
国・東京都 伝統工芸士
東京都伝統工芸士会 理事、副会長
社団法人 日本染織作家協会 正会員、常任理事
伝統工芸士 「染の髙孝」 代表
1947年5月17日生まれ
1966年 戸塚工芸社入社 父恒治より引き染ぼかしと、一珍染、兄更聖より江戸更紗を習得
1974年 工房「染の髙孝」を開く
1997年 東京都優秀技能者(東京マイスター)知事賞受賞
2002年 東京都伝統工芸士に認定
2007年 東京都工芸染色協同組合 理事長就任
2008年 国の伝統工芸士に認定
2013年 東京都工芸染色協同組合 相談役就任
2018年 第41回日本染織作家展 京都府知事賞受賞
2021年 瑞宝単光章叙勲
2022年 第45回日本染織作家展 衆議院議長賞受賞
その他、受賞多数。