祐真朋樹 #スタイリスト
僕も写真に愛されるくらい愛したい。
ー祐真さんは京都市生まれですが、どんな子どもでしたか?
4歳から毎日野球していました。5歳上の兄が野球をしていたし、「巨人の星」の影響も大きかった。
外では野球、家ではテレビ。「巨人の星」「タイガーマスク」「明日のジョー」「柔道一直線」「空手バカ一代」・・・と、梶原一騎/高森朝雄作品をリアルタイムで見ていました。兄が「大リーグ矯正ギブスや!」とエキスパンダーを身体に巻いてきたり、「虎の穴の特訓」と言って両足を持たれて逆さ吊りにされたり、明日のジョーのクロスカウンターごっこ(兄がジョーで僕が力石徹。サイズ反対やん)をしたり、地獄車(柔道一直線の必殺技)の真似をしたりして、日々、場所を選ばずに暴れていました。「空手バカ一代」の第一回目を見終わると、兄が大山倍達のビール瓶切りをやると言い出して、ビールの空き瓶を持たされたこともあります。
野球は中学二年生の秋までやっていました。辞めたのは、家庭の事情。部活後に学校から直ぐに帰って家事をしなくてはならなくなった。掃除、洗濯、飯炊き(鉄釜で)をして、曜日によっては塾へ行く。両親は毎晩のように兄のことが原因で喧嘩をしていて、兄は家に帰って来ない。たまに帰って来たら両親と喧嘩が始まり、家の中のムードは最悪でした。母親は仕事をしていたこともあり、僕に「もう家を出て行く」と言い出す始末。中学2年生の春休みでした。僕は母に出て行かれてからのことを考えると怖くなって、なんとか家にいて欲しいと思い、とりあえず家事を手伝い始めたというわけです。結局、部活の時間が取れなくなり、2年生の秋に野球部は退部。近所には、小学校から仲良しだった友達が数名いたのですがが、みんな家庭に問題があり、そのうちの1人が父子家庭。ある時期からそこの家が溜まり場になり、中学になると麻雀をするのが流行ってよく誘われました。一緒に遊びたい気持ちはあったけれど、兄が毎晩のように徹マンをして父と喧嘩になるのを見ていたので、僕は友達との付き合いも絶ち、2年間は家事と受験勉強に集中しました。今や思い出すのも恥ずかしいけれど、毎日家事をしながら手を合わせて「今晩は両親が喧嘩しませんように」と神に祈っていました。そんな生活が、高校1年生まで約3年間続きました。
4歳で野球を始めたきっかけは、兄より少し年上の友だちがホームランを打つ姿に憧れたこと。プロ野球選手だと、長島茂雄、王貞治、そして当時のホエールズのシピンが好きだった。長島のユニフォームの着こなし(ブラウジングが素晴らしい!)とサードの守備姿。王の美しい一本足打法と弧を描くホームラン。そして、シピンのやる気がなさそうなのに活躍するツンデレプレー。ユニフォームの着方や、振る舞いは、3人がお手本でした。軟式野球をしていたのに、道具はデザイン優先で選んでいたので硬式のグローブとバッドを愛用。グローブはローリングス、バットはアディロンダックです。でも、当たり前だけどどちらも軟式には不向きだったので、中学校の時は顧問の先生に怒られていました。硬式のグラブは軟球をはじきやすいし、バットは重くて振り遅れしやすかった。それでも格好いい方がいいと思って、顧問の怒りは無視して使っていました。子供の頃から「カッコイイ」が自分の価値観の中心にあったと思います。
ー子どもの頃からカッコイイを意識していたんですね。
普段着る服も、かっこいい方がいいと思ってました。かっこ悪いよりかっこいい方がいいよなって。3歳の時に、どうしてもジョッパーブーツが欲しくなり、父と一緒に店を3軒回った記憶があります。ベロアハットに合うのはジョッパーブーツだと思ったんですよね。
ーお兄さんの影響を大きく受けていたとのこと、どんな人ですか?
さっきも少し話したとおり、思い込みが激しくて情熱的な人。中学1年生までは抜群の優等生で、当時の通信簿はオール5。全国模試の成績も総合で7位になっていた。その兄が、もっと勉強に集中したいと言う理由で中学2年生に家を出て、実家近くに1人で部屋を借りたんです。すると、悪い友だちが集まってきて、兄の部屋はあれよあれよという間に「遊び場」と化しました。本当に悪のワンダーランド状態。当時、僕はよく父親から兄の部屋の見回りを命じられていましたね。小学校3年生から中学1年生くらいまで、その兄の部屋からは強い影響を受けました。1973年〜80年手前の時代の流行を見せつけられた。兄や兄の友人も悪いことばっかりしているんだけど、そういうのも服装もすごく気になるものばかりでした。僕はその中には入らないけれど、横目で見ながら「かっこいい」と思ってました。時代とともに、部屋に飾られているものや置かれているものもどんどん変わる。最初の頃は、「LET IT BE」の隣にガロのポスターがあって、その横にVANのステッカーが貼ってあったりした。強烈だったのは、ある朝、兄を起こしに行ったら、見たことのない兄の友人が2人、白いスーツ姿で床に寝ていたこと。1人は3ピースで1人はダブル。2人ともヘアはアフロで胸を開けていた。その顔の真横にドナ・サマーのレコードが置かれていた。凄く印象的な光景で、今でもドナ・サマーが流れるとその光景が蘇ってきます。そんなことの繰り返しだから、父親は怒るじゃない? 部屋にはタバコ、酒・・・なんでもある。だけど格好はおしゃれ。これは基本なんだよね。そいいうのが面白いなって思ってた。非行とおしゃれが合体していた。兄のいない間に、勝手にクローゼットから服を出して着るのが楽しみでした。兄が高校2年生の頃、『POPEYE』が創刊されるんですよね。同時に西海岸ブームっていうのが訪れる。すると、兄のそれまでの非行行為はきれいさっぱり削除され、一気にピースな雰囲気に。ファッションは彼女の手編みのカーディガンにサッスーンやカルバンクラインなどのデザイナージーンズ。部屋にはジャクソン・ブラウンのレコジャが飾られていた。バイクは、どこで借りたのかハーレーを乗り回していたのが、ある日突然、ホンダのロードパルに変わっていました。嘘でしょ?みたいな(笑)。
ー雑誌は読んでいましたか?
兄の影響で、『POPEYE』『MEN’S CLUB』『PLAYBOY』『平凡パンチ』『PENTHOUSE』とかかな。エロ本といってもエロだけじゃない、カルチャーが色濃く反映されていました。それらが兄の部屋には乱雑に置かれていて、それを僕はチラチラ見てた。『平凡パンチ』のグラビアページを見てドキドキしたのを覚えています(笑)。高校を卒業してからは、『MRハイファッション』や『流行通信』『BRUTUS』のスタイルブックなどを見ていました。当時は名前も知らなかったけど、ブルース・ウェバーが撮影していたムッシュニコルの広告写真にシビれて、そのページを切り取って部屋に飾っていました。
ー高校の卒業式は COMME des. GARCONS HOMME を着たとの記事を見ました。決め手はなんだったんですか?
COMME des GARÇONS は兄が着ていたので知りました。当時は「HOMME」の意味もわからなくて「ホメって何?」と兄に訊くと「オムって読むんや!」。「オムって何?」「フランス語や!」・・・みたいなやり取りをしたことを覚えています。京都BALの中には、当時の花形東京ブランド、「COMME des GARÇONS HOMME」「Y’s for men」「NICOLE」「MEN’S BIGI」「ISSEY MIYAKE」などが入っていて、そこはしょっちゅう行ってました。通っていた高校は制服がなくて私服だったから、授業をサボってね。そうするうちに、だんだんスタッフとも仲が良くなる。こっちは学生で生意気だけど、可愛がってくれたりもするわけですよ。同じフロアに偽物くさいなっていうブランドもあった。当時は情報が少なかったけど、そういうのって勘でわかりますよね。偽物を自分の中でカットしていくと、COMME des GARÇONSは明らかに特別で「なんか違う」という感じがすごくあった。Y’s for menも好きだったけど、僕にはちょっと似合わなかったんだよね。COMME des GARÇONS HOMMEは、着たときに「なんか大人じゃん、俺」みたいな気分になれて憧れた。それで卒業式には絶対COMME des GARÇONS HOMMEが着たいと思って買ったんですよね。
ー高校卒業後、薬品卸会社に就職したのはどのような経緯だったのでしょうか?
大学は、高校に入学する前から諦めてました。兄の学費も高いし、うちは裕福じゃないから、母親に「あんた大学なしね」って言われてた。まあ勉強も好きじゃないし、別にいいや、くらいに思ってました。兄の大学卒業と僕の高校卒業が同じタイミングだったので、「就職できなかったら一緒にカフェやろう」と話してたけど、兄は就職が決まっちゃって、じゃあ僕はどうしようかな〜って。その段階になって、担任に「先生、俺、やっぱり就職したいんだけどさ」って言ったら「馬鹿野郎!」みたいな・・・。時期が時期だったしね。で、とりあえず就職案内なんかを見たり、親父に相談したりして、病院関係はいいんじゃないか、という話になり、結局薬品卸会社に合格。親を安心させたいというのもあったので、とりあえず入社しました。
ー社会人の生活はいかがでしたか?
仕事は定時で17時に終了。18歳でその時間に終わったら暇でしょ? なので、毎日毎日、仕事の後はとにかく洋服屋さんに遊びに行ってました。大学に入った高校の同級生とは時間帯が合わないから、洋服屋のスタッフと遊ぶようになって、どんどんファッションの方に傾いていった感じです。そんなとき、兄の先輩が始めたクラブでバイトすることに。「Bauhaus」っていうんだけど、その名前に惹かれて集まったスタッフには美術系の大学生が多かったんですよね。軟派な人たちです。いろんな人がいて、ファッションも面白かった。反対に昼間の職場はヤンキーばっかりいて、それもまた面白い人が多いから、昼夜、まったく違う世界を両方楽しんでいる生活でしたね。
19歳の頃は、バイトの友人宅でよく遊んでいました。「Bauhaus」に来たお客さんで仲良くなった美大の女子大生たちや、店で働いていた年上のDJの人とか、みんなそこに集まってました。そんなある日の深夜、そこからの帰り道で、原付バイクに乗っていた僕は車と衝突。頭蓋骨陥没で生死の境を彷徨いました。2ヶ月で退院しましたが、その後3ヶ月ほどは自宅療養。その間、会社は休ませてくれました。
意識不明の状態から回復すると、両親に事故以降の話を事細かに聞かされ、いくつかの奇跡のような出来事が繋がって奇跡的に生還できたことを知りました。当たり前ですが、その奇跡がなかったら、僕は知らぬ間に死んでいたというわけです。自宅療養中、ずっとそんなことをベッドの中で考えていたら、心配をかけた両親、兄弟、親戚、友だち、仕事仲間、病院スタッフなど、すべての人への感謝の気持ちが心の底からこみ上げてきました。志も持たずに、中途半端にふらふらしていた生活が、こんなだらしない結果を生んだのだと思い、何か信念を持って生きないとダメだと考え始めました。元気になると会社勤めに戻り、まずは一年、無我夢中で働きました。
ー『POPEYE』に入るきっかけは?
会社に復職してからは、夜のバイトも辞めて真面目に働いていました。そんなある日、仕事帰りに寄っていたなじみのショップで『POPEYE』のスタッフと遭遇。ちょっと手伝うことになったんです。その店は、京都のはずれにあった『TIP TOP DAYS』という店。ほぼ毎日通ってました。その日もオーナーの杉本モンタさんと話していたら、「これから取材を受けるから」と言うので僕は外で待ってたんです。取材が終わるとモンタさんが「ちょっと、あんたの車で送ってあげて」。タクシーがなかなかつかまらないエリアだったんですよね。で、四条河原町まで送りました。それがPOPEYEの取材クルーだったわけです。車の中で、京都のかっこいい店や面白いものなんかをいろいろ訊かれて、「○○は行きましたか?」「△△は?」みたいな話に。翌日、車中で紹介した店のひとつに行ったら、POPEYEのクルーも来てた。びっくりしていたら「あなたのこと、なんとなく信用できそうな気がする。他の店も紹介して」と言われ、その後、一緒にご飯にも行って盛り上がったけど、そのときはそれでおしまいでした。
ー東京には行かれてたんですか?
西麻布のTOOL’S BARというクラブには通ってました。それまでの「ディスコ」の概念とは違う空間で面白かった。最初は3ヶ月に1回だったのが2ヶ月に1回になり、ついには毎月行くようになってた。あるとき、店側に「入れられない」って言われたことがあった。京都から来てるのに・・・って思っていたら、一緒にいた友だちが、「ここはPOPEYEの関係者がいるはずだ。連絡しろよ!」って言うわけですよ。それで編集部に電話してみたんだよね。西麻布の交差点の電話ボックスから。そしたら店に連絡してくれて、無事入ることができました。後日、お礼がてら編集部に遊びに行ったんです。そしたら突然、編集会議に参加することになった。当時の編集部は自由な雰囲気だったんだよね。面白い奴ならとりあえず話を聞こうぜ、って感じ。その会議は「東京大特集」だったかな? 僕はいきなり「地方から見た東京の一番のアイコンって何?」って訊かれたの。「東京タワーですかね?」って答えたら、茶化されながらも話が繋がっていって、「じゃあ、表紙はアンディ・ウォーホルに東京タワーを描いてもらうのがいいんじゃないですか?」なんて言う人もいた。僕にしてみたらビックリもいいところだけど、編集者たちにとってはそんなことハッタリでも何でもない。実現可能な話としてみんな会議してる。それを聞いているうちに、なんとなく「ここには自分がやりたいことに近いものがあるんじゃないのか?!」と思い始めた。編集長も「東京に来る気、あんの?」と声をかけてくれて。それで「あります!来ます!」。それが10月頃。翌3月に会社を辞めるまでも、休日を利用してちょくちょく東京通いをして、4月からは本格的に『POPEYE』でお世話になることになりました。
ー『POPEYE』に入ってからは如何でしたか?
雑誌作りは全てが初めての経験。何にも知らないところからのスタートでした。
なのに、いきなり巻頭の特集ページをやらせてもらえることになったんです。今から思うと、編集長に試されたんだと思います。ファッションではなくて、「BMWを安く買う方法」というページと、「美味しいアルバイト情報」、計4ページでした。もちろん自分が企画したものではなく、そのページの担当編集から与えられたテーマです。わからないままに一生懸命やったけど、アルバイト情報のページはいい加減なものになってしまいました。BMWのページはそれなりのものにはなったと思うのですが、写真やレイアウトは凡庸。とにかく散々なデビューでした。雑誌ができると編集長に「こんないい加減なページを作るな!」と叱られ、「すみません」と謝ったら、「俺じゃなくて読者に謝れ」と言われました。その時、痛感しました。「全ては読者のため」と。21歳の春でした。POPEYEは月2回発行されていて、その後は「POP・EYE」という巻頭の情報コーナーをやらせてもらってました。2週間に1回のペースでネタを持って行くんです。ネタをプレゼンして、採用されたら撮影➡レイアウト➡そして原稿まで書く。採用される数はその都度変わります。取り上げたい服や雑貨、人物がなぜ素晴らしいのかをきちんとプレゼンしないと通らない。考える訓練になりました。撮影やレイアウトも、そのネタがどうすれば魅力的に見えるのかを考える。一番大変だったのは 何と言っても「原稿を書くこと」。とにかく時間がかかりました。何度も書き直しさせられていました。担当者やキャップにも迷惑をかけましたが、一番面倒を見てくれたのは校正さんたちです。編集部へ行って半年くらいたった頃、4人いた校正さんが3人になって、その1つ空いた机で原稿を書いてました。真横と目の前に3人の先生がいる感じ。校正さんが、僕のダメ原稿を僕の目の前で大きな声で読み上げるんです。「自分でも書いたら声を出して読んでみなさい」と言われ、校正さんの前で声をだして読みました。いやはや、本当にお世話になりました。
アートディレクターとのレイアウトミーティングでもよく叱られました。レイアウトのラフを作って見せるんですが、「つまんない」と言われれてやり直し。「写真がよくない」と言われて再撮したこともある。日々落ち込むような出来事の繰り返しでしたが、1日1日成長しようと自分なりに心掛けました。1年頑張ってみてダメだったら京都へ帰る、と決めていました。一度は死にかけた命、と考えたら、辛いことなど何もなかった。
ー24,5歳からパリコレに毎年行かれています。なぜ行こうと思ったんですか?
22歳頃から、自分が稼いだお金で海外に行くようになり、それが楽しかったんです。当時の僕には海外取材も撮影もない。そういう仕事が来るような立場ではなかったしね。とにかく、行ったことのないニューヨーク、パリ、ロンドン、ミラノ、ロサンゼルス、サンフランシスコなどへ遊びに行きました。いろんなところへ行って、生の情報に触れるのが楽しかった。東京にだけにいても、業界漬けになって視野が狭まりそうだと感じ初めていたんですよね。もっと外の世界をダイレクトに感じたかったんです。パリコレに初めて行ったのは1989年。24歳の時です。当時はポパイで渋カジの特集をよく企画していました。『POPEYE』では、87年頃からFDGスタイルの提案をしていたんだけど、今ひとつ、作る側にも理解が足りなかったんじゃないかと僕は思ってた。当然それは読者にも浸透するわけがない。そんな時、FDGで進行していた企画なのに、編集長が突然表紙に「渋カジ」ってデカデカとタイトルをつけてしまった。おそらくFDGって言葉より、渋カジの響きに惹かれたんだと思う。当時の『POPEYE』は、毎号平均30万部以上売っていて、無茶な提案も響いてしまう影響力がありました。が、それだけに責任も重かったのです。だから、何が渋カジで何がFDGなんだろう?と、ページを作っている側にいるにもかかわらず何かモヤモヤとした状態だったんですよね。頭でっかちになってしまっているなと思い、もっと手づかみで共感できるようなファッションはないのかと感じていました。
そんな頃、彼女と南仏へ夏のバカンスへ行きました。当時、マガジンハウスのパリ支局長をしていた村上香住子さんも一緒に。昼間、村上さんに、サントロペのビーチで「スケザネ君はどんな仕事しているの?」と訊かれたときは、「え〜、渋カジとかFDGとか・・・」なんて説明してるうちに恥ずかしくなってきて、「頑張ってます!」みたいな。そうしたら「パリコレのメンズでも見に来れば」と誘ってくれた。おお、これは僕のモヤモヤを打ち消してくれる起爆剤になるかも!と、一念発起して行ってみたのが89年のパリコレです。目当てはCOMME des GARÇONSとYouhji Yamamotoでした。でも、それ以外にも貴重な体験をしました。まだコングロマリットの一部になる前のSaint Laurentへ行くと、他のコレクションで見かける人たちとは別の世界に住む人々が来ていました。ショーに出てくる服にしても、こんな服を誰が着るのだろう?と思って僕は見ていた。でも、スタンディングオベーションが起こる。クラスの違いを痛感したのと、ファッション観のギャップを感じて、世界は広いと思いました。DRIES VAN NOTTENのパリコレデビューを見れたのもよかった。今以上に手作り感覚満載のショーで、背景に描かれていた太陽の絵が学芸会の舞台みたいで可愛かった。Jean Paul Gaultierのショーは、ゲイクラブのショーのようにクレイジーで斬新だった。服を見せるというよりは、アートパフォーマンスそのものだった。当時の若手注目株のJose Levyのコレクションも、キャスティングやインビテーションが凝っていて興味深かった。今と違って、コレクションの数も見に来ている人も少なかったし、ブランドによって見に来る層もかなり違っていました。92年以降はミラノコレクションへも行くようになりました。その頃には、『POPEYE』以外にも仕事をさせて頂けるようになっていまして、当時、『03』という新潮社の雑誌で編集者をしていた中原聡子さんの誘いでいろいろ仕事させて頂いたりもしました。パリコレへ行き始めた頃はロメオ・ジリが好きでよく着ていたので、ミラノコレクションへの興味も湧いてきていました。ちょうどその頃、『03』のイタリア特集号でDOLCE & GABBANAを取り上げていたのを見て感動。そのページを担当していた中原さんに「メンズはミラノコレクションが面白い」と聞いて即行くことに。とにかく、DOLCE&GABBANAのコレクションが見たくて行ったのですが、当時は日本の代理店とのパイプが曖昧で、初めて行った時は結局会場へ入れず終い。2度目も、1度目と同じく日本でチケットを予約しておいていたにも関わらず、ホテルにはインビテーションが届かなかった。なんとか入れないものかと会場前でウロウロしていると、見慣れない日本人の方に声を掛けてもらった。それが、当時のバーニーズのバイヤーだった小田切健太郎さん(現バーバリージャパンの社長)。「バーニーズジャパンのチケットが余っているからどうぞ」。なんと、僕は当時のバーニーズジャパンの社長のインビテーションを頂いてしまったのだった。いきなりファーストロウ。天にも昇るような気持ちで、鼻高々で初めて生のDOLCE&GABBANAのコレクションを見ることができました。小田切さんには足を向けて寝られません。
ミラノとパリ、両方のコレクションを見ることで、時代の気分が味わえる。こんな感じだな、と世界観を共有するのが大切なんだと思いました。以来、30年通ってきましたが、今はコロナでストップしています。
ーFASHION NEWS MEN’SやBeacon Fireの編集長も経験されています。どのような気持ちで臨まれていたんですが?
FASHION NEWS MEN’Sは2004年から始めました。39歳のときです。30代でファッション雑誌の編集長になる、と目標を立てていたので、ギリギリで間に合いました。FASHION NEWS MEN’Sはインファスが出版していたのですが、1998年頃からインファスが制作するテレビ番組「ファッション通信」の仕事をしていたんです。そして、2002年頃にインファス主催のリーバイスコレクションにディレクターとして参加。これは東京ガールズコレクションの雛型になったものでした。そのリーバイスコレクションをプロデュースしていた奥信太郎さんに誘われて、僕の編集長生活が始まりました。「ファッション通信」でやっていた、ショーの後すぐのデザイナーインタビューを記事にするのが最初は基本でした。が、やっていくうちに、もっとじっくりとデザイナーにインタビューがしたくなってきて、エディ・スリマン、クリストファー・ベイリー、トーマス・マイヤー、キム・ジョーンズなどなど、多くのデザイナーがインタビューを受けてくれるようになりました。お決まりの質問はせずに、プライベートな話を聞けるのが楽しく、また、凄く勉強になりました。ショーの後、翌日の展示会で世界最速ファッション写真としてモデルを使って撮影をするのも恒例でした。とにかく、制作費はなかったけど、やれることはとことんやってみました。スタッフは、僕以外に編集者が1人とアートディレクター。基本3人でした。たくさんのPRの方たち、そしてミラノやパリでバックステージを撮影してくれたカメラマンにお世話になりました。とても感謝しています。Beacon Fireは、FASHION NEWS MEN’Sではできない、ファッションストーリーを重視したページを作りたくて始めました。2008年が最初だったと思います。写真を撮って、原稿を書いて、もちろんスタイリングをして、台割も作る。FASHION NEWS MEN’Sと同時進行だったので、寝る間も惜しまず働きました。この雑誌も編集者は基本1人。4号まで出しました。毎号編集者は変わりましたが、アートディレクターはずっとFASHION NEWS’MENSと同じ稲葉英樹さんが担当してくれました。稲葉さんは自らフォントを作り出し、考えもつかない斬新なデザインを作ってくれました。毎回スリリングで楽しかった。とにかくある時代に、ファッションを通して、やりたいようにやれた。これは素晴らしい経験になりました。
ースタイリストとは?
何でしょうね?上手く答えられません。
高校生の時(1982年)に、婦人服ブティックでアルバイトをした経験があるんですが、その店には『スタイリストの本』(マガジンハウス)というのが『an・an』や『ELLE JAPON』と一緒に置かれていた。お客さんがいない時に、その『スタイリストの本』をじっくり読みました。それで、洋服をコーディネートすることが仕事になることを初めて知りました。「スタイリスト」って言葉は衝撃的でしたね。
スタイリストの提案が服のデザインにイノベーションを起こすきっかけになったり、ファッションビジネスに於いてはゲームチェンジャー的な存在にもなることもある。でも、結局は洋服をコーディネートするのがスタイリストの仕事であり、求められていることだと思います。僕も常にそれがきちんとできているのかと、自分に問いかけながら仕事をしています。写真を撮り、雑誌や本も作らせてもらいましたが、常に洋服がどうあるべきか、どう見えるべきなのかを起点にしてイメージを広げています。ファッションページを作る場合はそれが一番大事だし、正しいプロセスなのだとつくづく感じます。まずは「服」ありき。そうでなければ、素敵なビジュアルなんて作れないと信じています。
ー洋服を着るということはどういうことですか?
今だと、“スタイルが大事だ” とよく耳にしますよね。だけど、人のスタイルを見て右に倣えする必要はない。自分のスタイルを追求する楽しみが面白いんです。ファッションはふわっと自由に楽しむものだと思うから。そういう自由を僕は楽しんでいたいです。着る楽しみが自分の中では一番大事。「何着よう?」とあれこれ考えている時間が好きなんですよね。着る楽しみをずっと味わっていければ本当にハッピーなんですけどね。ファッション愛というか、「洋服を愛している」とは恥ずかしくて言えないけど、願わくば洋服の神様に愛される人間になりたいものです。
雑誌「POPEYE」でファッションエディターとしてのキャリアをスタート。
その後スタイリスト、ファッションディレクターとして活躍。日本のファッションシーンを最前線で牽引してきた。
パリとミラノのコレクション観覧歴は30年に及ぶ。