ありがとうございます(笑)ご家族も映像関係の仕事をなさっているとお聞きしましたが、クリエイティブなご家庭で育ったのですか?
いや、全然普通の家。多分あるとしたら、曾おじいちゃんが台湾で戦前写真館をやっていて、木村伊兵衛とかが勉強していたみたい。唯一、繋がりがあるとしたら、そこかな。
高校生の時から映像を撮り始めたとか?
そう。家にあった Hi8 のビデオカメラで友達を撮影していました。ただただ撮っているだけ。今この時を撮っておこうみたいな。ただ面白かった。そのテープはまだ NY にあるかも、まだ荷物は向こうに置きっぱなしだから。
なぜ海外に行こうと思ったのですか?
映画を作りたくて海外に行った。日本に行きたい大学もなかったし、日本を出た方がいいと思ってた。色々、くだらないことや納得できないことってあるでしょ? それで怒られたりする。このまま日本にいたら出る杭打たれるじゃないけど、そうなっていくんだろうなと思って、これじゃヤバいからアメリカに行こうって。とりあえず行った。NY の映画学校の学費は高い。年間300万くらい。そこまでして大学に行くのもって思い……要するに何も考えてなかったんだよね。普通は映画を勉強したいなら大学入るのに300万かかるとかどうのこうのって全部調べてから行くと思うんだけど、行ってから調べ始めたから……いい加減だったんだと思います。
語学は勉強してから行かれたんですか?
英語は全く喋れずに行って、単語だけは勉強して行ったけど、全然喋れなかった。コミュニケーションも全然できなかったけど、向こうに行って1年くらいかな?アメリカ人の仲いい友達ができて、そうしたら一気に喋らなきゃいけなくなって、そこで結構喋れるように。自分の頭の中で言葉を訳しながら話さなくなるまでには5年くらいかかったけどね。
語学学校にいる間はどのような活動をしていたのですか?
普通に遊んでた。元々、音楽ができたからバンド活動もしたり、オーケストラもやってた。街のオーケストラがあって、そこで。そういう活動のおかげでアーティストビザが取れた、バイオリニストで。生きる術としてバイオリンを弾いてた。
日本に戻ってきた理由は何ですか?
戻ってきたというか、色々あって最後は国から追い出された。一生、入れないんだもん。けどアカデミー賞にノミネートされたら入れるらしい(笑)。
映画との触れ合いってどの様にされていたのですか?
NY に Kim’s Video & Music っていう伝説的なビデオ屋があって、そこに毎日通って。そしたらそこで友達もできて、店員ともどんどん仲良くなってビデオもタダで貸してくれるようになって。それで映画仲間ができた。
映画の作り方は独学ですか?
独学。映画を見まくっただけ。私の場合はプロデュースも自分。全部やらないといけないから衣装も自分で縫ったし。編集も自分で撮影したものをとにかく繋げるところから始めた。やってりゃあ何とかなる。けど『KUICHISAN』の時は苦労した。ストレートなやり方がわからないから。『KUICHISAN』の編集はすっごく時間がかかって、1年10ヶ月くらいかかった。
1作目と3作目で撮影監督をされているショーン(ショーン・プライス・ウィリアムズ)がいますが、撮影監督はどの様な役割ですか?
私の場合は固定で撮るときはポジションは自分で決める。そして、彼にそれを撮ってもらう。固定じゃないときは、だいたいこういう感じのが欲しいって伝えて彼に任せる。映画ってBロールってのがあるんだけど、これが欲しいって私が言ってない、ちょっとした偶然で街で見たものとか、こういうのがあったら良いかもってのを優秀な撮影監督は映画に合わせてパパッと撮っておいてくれる。だから、撮影するだけじゃなくて内容にも関わってくる可能性がある。優秀であればあるほど。
いろんなタイプがあるけどね。ショーンは自分でも監督をしているからビジョンが強くてクローズアップが得意。あと映画オタク。
フィルム(SUPER 8)を使うのは、どんなときですか?
SUPER 8 は瞬間の光とか全てバチッと来たときに使う。フィルムの方が向いている画とか光があるんで、そこでしかない。光かな。そこが判断基準。
フィルムのモノクロとカラーを選ぶものも同じ感覚で、ロジカルにモノクロとカラーを選ぶわけじゃなくて、本当にその時の感覚。
『KUICHISAN』は元の元を撮った時はモノクロで撮ってた気がする。
フィルム好き?
別にフィルム好き、フィルム派、ではないんだけど、やっぱり光の捉え方が全く違う。でも撮ってるって感じはあるよね、すぐ見えないし。マジカルに感じるときもあるけど、デジタルにもマジカルを感じることはあるんで、一概にフィルムが良いとは言えない。
映画のお金ってどうやって手に入れるのですか?
プロデューサーがいればお金を持ってきてくれるんだけど、そんな最初からプロデューサーなんていないから助成金を申請してみたり、自分の資金で最初はなんとか作る。で、そのうちプロデューサーが付いてきて……みたいな。助成金は最初の『KUICHISAN』は同じ所から2回もらっていて私は実績がなかったんだけど、日本映画が珍しかったのと出来たばかりの所だったから、すっと入れた。助成金は企業や映画助成団体、あとは個人からの資金援助など色々なパターンがある。助成団体は基本的には映画に口は出さない。海外の方が助成金の団体は多い。私の理想は日本にも海外にもプロデューサーがいて、どちらからも助成金を得ながら映画を撮れるってのが一番。でもすごく難しくて、本当に相性のいいすごいプロデューサーに出会うことほど難しいことはない。恋人と出会うくらいの感じ。
海外の方がチャンスはあると思いますか?
チャンスってなんだろう。チャンスはチャンスでしかないから。日本でも撮りたい映画を撮れるのは0%ではないから、変なチャンスが転がり込むこともあるし。一概には言えない。要するに、できるかできないかの差で、映画を作りたいって言っている人もいっぱいいるし、資金がどうのこうのって話はすごく聞くんだけど、結局、その作品を作れたかどうかが全てで、そこに行くまでに何を通ってきたかは関係ない。気合い、な気がする。
『KUICHISAN』の時はどの程度の予算がかかったのですか?
900万くらいかな?それでも安くて、例えばアメリカのインディペンデント映画で成功している監督で2億円くらい。それでも小規模。ハリウッドは何十、何百億の規模になるからね。日本のインディペンデントだと長編映画で300万くらいもあるんじゃないですか? 日本は悲惨だと思う。
『TECHNOLOGY』のロケ地はどの様な縁で選ばれたのですか?
沖縄とかインドとか並びで撮ってる監督、自分じゃなかったらすごい嫌だなって思う。インドとかも最初は行きたくなくて。「絵になるインド」とか、あのいかにもなイメージが大っ嫌い。だけど、単純に主役の女の子の名前がインディアだからインドに。彼女の名前もインドに由来があったから。結局、3回行って。行きたくなかったけど、今まで行った中で一番いい旅ができた。でも『TECHNOLOGY』は金銭的に恵まれなくて本当に大変だった。1作目ってビギナーズラックじゃないけど、なんかうまくいくんだよね。お金の面も含めて全部。『TECHNOLOGY』は作ってから作品を発表するのに時間がかかった。
全てを自分でやる。それに至った理由は何ですか?
ある意味恵まれてなかったからだけだと思う。自分でやるしかなかった。サポートがあれば人に任せられたかもしれないけど、結局、自分でやればお金を払わずに済むし。インディペンデントでやるにはそれしかなかった。
遠藤さんの作品はアートですか?映画ですか?
どっちでもいい。
監督とはどんな役割だと思っていますか?
自分の役割としては、私が才能あるなって思う人を集めて繋げるだけ。それが仕事だと思ってる。自分の動機に基づかない行動は得意じゃないし、興味がないと何もできない。映画もそこに自分なりの惹かれるものがあるから撮っているけど、それがなくなったら撮らない。
気合いで3作を作れた力はどこから来るのですか?
映画監督って感覚がおかしくないとできない。私はとにかく動き出しちゃう。それだけを見ちゃうから、洋服も買わないしアイスを買うのも躊躇する。覚悟の問題。自分でも不思議。ほんと皆さんの協力があってできている。本当にありがたい。何か変なことやってんなーって面白がってくれて、協力してくれてるんだと思う。自分のプロジェクトは本当に少ない金額でお願いするしかないけど、すごいところで仕事してる人ほどお金じゃないのかもなと、その人たちを見てると思う。職業、映画監督って言えないんじゃないかな。それだけで食べるとか、そこまでいってないから。
3作目まで駆け抜けて次は4作目ですが、思うことはありますか?
10年前の自分とかすごく生意気だったと思うし、とんでもないクソ野郎。やっとそういうことがわかってきた。人間に恵まれてきた。私はすごく飽き性なんだけど、何で映画を続けられてるかって、ロケハンとかのプリプロダクションと制作の時期と編集の時期は全くやっている内容が違って、自分的にも違うモードになるから続けられる。撮影してた時の写真を見て幸せだったんだなーって思う。人に囲まれてるじゃないですか、撮影中は。それ以外は孤独だから。
あとは映画ってこわい。マインドコントロールなので何でも植えつけられるし、だから自分の作品では、それを悪い方向には行かないようにリードしてかなきゃと常に思っています。自分ではそう思っていても、無意識で悪のパワーを持つこともあるかもしれない。
私には何もない、けど正直ではある。テクニックがあるわけでもないし、すごく文脈的なロジカルさがあるわけでもない。正直なだけ。できないことはできないし、やりたくないことはやらない。自分の中は、ある意味何もないから、どんなに考えても考えた風にならないしプラン通りにいかない。けど、本当に天から与えられたものを与えられた瞬間に、これだってものに行く力はあるなと思います。
将来したいことはありますか?
宇宙に行ってみたい。
作品的なことを言うと、人間の根源的なところを揺らすようなことは絶対やらなきゃいけない。
次回作についてお聞かせください。
今作に続き、次も東京です。元々、東京で育っているけど、まだ東京は撮ってなかったので。自分の育った東京で撮らなきゃいけないなって思っていて。今後のチームづくりのために1個、タイミング的に作っておかなきゃって思ったのが『TOKYO TELEPATH 2020』。次回作は2023年にできていたらラッキーです。
遠藤 麻衣子
1981年、ヘルシンキ生まれ。東京で育つ。2000年に東京からニューヨークへ渡り、バイオリニストとして、オーケストラやバンドでの演奏活動、映画のサウンドトラックへの音楽提供など音楽中心の活動を展開した。2011年日米合作長編映画『KUICHISAN』で監督デビューを果たす。同作は、2012年イフラヴァ国際ドキュメンタリー映画祭にてグランプリを受賞。2011年から東京を拠点に活動し、日仏合作で長編二作目となる『TECHNOLOGY』(16) を完成させた。本年、新作中編『TOKYO TELEPATH 2020』がロッテルダム国際映画祭に正式出品。
現在、東京での長編三作目を準備中。
『TOKYO TELEPATH 2020』
10/10(土)〜10/30(金)までシアター・イメージフォーラムほか全国順次公開
過去作『KUICHISAN』『TECHNOLOGY』も併映
公式HP www.kuichi-tech2020.com
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人間の根源的なところを揺らすようなことは 絶対やらなきゃいけない。
子供の頃から身近にアートはありましたか?
そんなにたくさんアートを飾るタイプの家じゃなくて、日本家屋だったので自然に作品が置いてありました。
最初に意識した作家はどなたですか?
アブラハム・デイヴィッド・クリスチャンが僕の幼い頃、夏の間に制作で滞在していて、その時に一緒に子供の僕や妹に描いてくれたものがあって。それが最初に目にした美術作品ですかね。動物の絵だったり……。
他にも色々なアーティストが来ていたようで、クレス・オルデンバーグのホットドッグの絵を描いた落書きもあって、父が鎌倉を案内した時に喫茶店の紙ナプキンとかに描いたものなんですが、不思議な魅力があって子供ながらにとても好きでしたね。
凄い……父親(横田茂)が普通じゃないって気が付いたのはいつ頃ですか?
小学校に上がった頃から私の父はどうも周りのお友達のお家のお父さんとは雰囲気が少し違うかなって思っていて。うちの父、なんか真っ黒に日焼けして他所様のお父さんと雰囲気が違うなーとは意識し始めましたね。
いつから美術の勉強を始めたんですか?
中学高校は全く芸術に興味はなくて。大学も商学部で産業史、経営史の歴史を勉強しました。僕は日本の楽器産業について研究していましたね。商学部を卒業してから文学部に転入して美学美術史を専攻しました。そこで専門的に美術のことを勉強しました。
先生はたくさんいましたが、特にお世話になったのは、前田富士男先生と近藤幸夫先生。前田先生はパウル・クレーとゲーテの色彩論の研究で有名な方。近藤先生は元々美術館出身の方で、展覧会を学生に企画運営させたりと、学ぶ内容が研究と実践だったので、その両方を行ったり来たりできて本当にいい勉強でした。
なぜ芸術に興味が湧いたんだと思いますか?
結局、自分がどういう環境で育ってきてたか。勉強することで空気感みたいなものが自分の記憶とつながるんですよね。小さい頃に見ていた作品などは何となく距離があったわけですよ。なんだけれど、芸術に興味が出たときに記憶と繋がってくる。興味を持つことで自分に近づいてくる感覚がありましたね。
卒業論文は何をテーマにしたんですか?
ジョゼフ・コーネルを研究しました。父の代表的な仕事でいうとコーネルを日本に紹介したということもあったんですが、僕の印象的な体験もコーネルだったんです。自分が幼少期に感じたコーネルの作品のことを知りたくて研究しましたね。それを通らないとダメなように思えて。今考えると知識でやろうとするあまり本質的な部分が見れてなかったなーと思います。研究なので色々考察していくわけなんだけれども、果たして自分の考えていたことが、その作品を知ったりそのアーティストを知ることにどこまで重要なのかなっていうのはこの仕事をしてから思いましたね。
卒業後はお父様も修行された瀬津雅陶堂に入社されたとのことですが、なぜですか?
瀬津雅陶堂は三代続いている古美術商で、そこに行って実際の日本美術の名品に触れることがすごくとても大事で、そこしかないなって思って就職しましたね。
古美術商とはどのような仕事内容ですか?
博物館で展示されている歴史ある作品ってあるじゃないですか、歴史的な価値のあるものっていうことと同時に美術作品としての価値も同時にある。
古い過去の時代に作られたものが今まで大事にされているものですから、やっぱりそういった責任のあるものをきちんと取り扱っているところが古美術商の仕事ですよね。
いわゆる現代美術とは作品を扱うという形では同じなんだけども、やっぱり成り立ちの違いがあり、当時は作品だと思って作っているわけじゃなくて何かの埋葬する時の副葬品だったり、信仰の対象だったり、生活を彩るものだったり。時には茶の文化とかが入ってくるとその場は精神的な場所であり時には政治の場所だったので、その人を表すとても大事なものだったりとか、例を挙げているとキリがないのですが、そういうのをきちんと知って伝承していることが古美術の大事なところですかね。
でも僕が実際にそこでやっていた仕事は、こういうことをやり遂げました、こういうプロジェクトに関わった、とかではないんですよね。何をしていたかっていうと黒子なんですよね。例えばお客様に作品を見せるときに何かを見せるとわかったら、その時に何が追加で必要か考えて先回りして準備をする。
あと大事だったのはお客様が作品を見るとき、お抹茶を点てる準備ですよね。お抹茶をいただきながらゆっくりお話をしながら作品を見ていただくんですよね。僕は点ててはいけなかったので、厳重に保管されている箱からお茶碗を出して、お茶を点てるまでの準備をしたり茶筅をお湯で濡らしたり、先輩がスムーズにお茶を点てられるように準備するんですね。そして抹茶を帛紗の上に乗せてお客様のところまで持っていく。基本、僕がお客様の前に出てくるのはその時だけで、それ以外は部屋の外から何が話されているか聞いて必要に応じて先回りして作品だったり、図録を出す。まあ全然できてなかったですけどね(笑)
でもそこには基本的なことが全部あったような気がします。それはコミュニケーションだったり、自分がどういう風に動けばきちんと周りが淀みなく進行するかっていうこと。細かなことが全部に繋がっているんだと思いますね。本当に瀬津雅陶堂の在籍時には社会人というか、根本的なことを色々と教えていただきました。
古美術の作品は頻繁に動くのですか?
日常品とか物が売れるような形では動いているものではないです。同時に責任があるんで。特に瀬津雅陶堂は大事な作品を取り扱っていたので、何度もお会いして作品をお譲りするっていう感覚でしょうか?売って終わりじゃなくて、きちんと次の世代に伝えていただける方にお譲りし、預かってもらうと瀬津社長が言っていたことを覚えてます。
そこは扱っている作品の時代も違いますが、今の仕事とも同じ感覚なんです。やっぱり売って終わりじゃなくて、それからのアフターケアも含めて、きちんとして持っていてもらいたいじゃないですか?
瀬津雅陶堂を退社後、東京パブリッシングハウスに入社(2009年)。最初に携わった仕事は覚えていますか?
最初に僕が担当を任されたのは河口達夫さんのアーティストブックを作ることですね。河口さんが東京国立近代美術館で個展を開催する直前だったんです。企画の中で、たった2冊の本を作ろうって話になって、河口さんが展示室の空間の見取り図に、気配みたいなのものをですね、鉛筆でひたすらドローイングをしたものが束であって、それを、それぞれ2冊の本に編集して本を作ったんですよ。美術館とギャラリーの緯度経度が関係として示されている。本は展示室に展示されずに壁の中に隠されていてもう1冊は同じタイミングにアナウンスしてないんだけどギャラリーにひっそり展示してある。ギャラリーと国立近代美術館という場所が河口さんによって繋がれているっていうコンセプチュアルなものでした。
「SHIGERU YOKOTA Inc.」「TPH」「JCRI」の3つの組織で運営していて、その活動ごとにアーカイヴがあると思いますが、それについて教えてください。
ここ10年以内の話ですね。作家が残念なことに鬼籍に入られて、作品だけが残されている状況があるわけじゃないですか? その時に作品だけじゃなくて、その作品が成立する裏のストーリーも含めて、きちんと伝えていくっていうのがアーカイヴの役割のひとつだと思っています。そこは結局、父や自分が関わっているアーティストの仕事を残していく上で大事なことだし、どうしても避けては通れないことですね。もちろん美術館やギャラリーとか立場でアーカイヴの意味も違っていると思いますが。
東京パブリッシングハウスがアーカイヴの重要性を訴えているのは、なぜですか?
ある意味そう言ったことを戦略的に考えてるからですかね。海外ではもうそういった考えはもう定着していて、そこには公的な予算もついています。例えば美術館は作品だけじゃなく周りの資料もきちんと管理しています。日本は今やっとその考え方が定着してきましたが、やはり作品だけが美術館に入る。作品だけ入っても実際どういう人がどう関わっているのか、その作品の周辺にある情報は、やっぱりとても大事なところで、そこをきちんとしていくことは大事なことだと思います。活き活きとしていた過去をきちんとすくいあげる事ですね。未来の為です。お陰様で髙島屋の歴史を編纂する企業アーカイヴをお手伝いさせていただいたんですが、その役割や意味を考えるきっかけになりましたし、ギャラリーの現場で置き換えても、自分としては大きなことでした。
ところで横田さんの肩書きって何ですか?
ギャラリストって嫌ですよね?(笑)作品を扱っている意味ではギャラリストであることは間違いないんですが、もっと良い言い方がないか検討中です。役割ってのも、仕事の内容によって変わってくるものなので……単純に「画廊で働いてる人」で良いんじゃないですか?(笑)
話がズレました。東京パブリッシングハウスに入社してからは存命の作家にお会いすることもあると思いますが、作家の方々に共通点などはありましたか?
皆さん自分の仕事に誠実で真面目な方々ばかりです。個性的だし魅力的ですよね。好奇心や探究心のある方達なので刺激を受けます。年齢も感じさせない。多分、時間の流れが違うんだと思いますよ。やっぱり生涯現役でやってるから、一分一秒も休みはなくアーティストなので時間の密度がきっと違いますよね。残念ながらお会いできなかったアーティストもいます。
横田さんの仕事内容について教えてください。
やっぱり基本は展覧会を作って、作品を販売することです。そのためには作家の話を聞いたり、色々なことを確認したり。作品を壁にかけるまでは様々な準備があります。どういった展示方法が相応しいか、場合によっては材料を自分で作ったりする場合もありますし。あと、作家や作品を紹介する文章も書かないといけない出版が連動する展覧会の場合は、お世話になっている装丁家の人と相談したりしますし。
展覧会が始まったら、来た方に作品を説明したりで1日はすぐ終わってしまいますね。美術館での展示のお手伝いも、もちろんあります。やっぱり表に出ないことでの段取りが大半を占めますよね。
展示する際はどの様にしていますか?
作品を預かった以上、展示はうちに任せていただています。ここのスペースは僕たちの領域なので、展示はきちんと責任を持ってやります。そのためにどういった作品なのか勉強させてもらいますし。
横田さんが作品を展示するときに気をつけていることは何ですか?
作品の持っている空気がありますから、たくさん並べるよりも作品が持っている、発しているものを含めて空間をとる。そうすると、どうしても大きい間の取り方になっちゃうので、どちらかというと削ることにエネルギーを使う。ズバリ作品そのものだけを見てもらえるように。「これしか展示作品がないの?」と言われることもありますよ(笑)
東京パブリッシングハウスや横田茂ギャラリーで扱う作家たちは、どの様な人たちが多いですか?
言葉にするのは難しいんですが、展覧会をやる以上はできるだけ長くお付き合いしていきたいと思っています。もちろん企画で1回限りの展示という方法もあるんでしょうけど私たちの性質には合っていないかもしれませんね。やるんだったら、その人にずっと付き合っていきたいですよね。
自分も作家も良い時も悪い時もあって、それでも仕事は続いていくわけじゃないですか。そういった意味でそういう時間を共有できる人じゃないとできない、と父の仕事を間近で見ていて思いますよね。ご一緒できる方と出会うのは難しいことですけど、こちらがきちんと仕事をしていれば自然に縁が生まれると教わってきました。縁が生まれてくのが大事だなと思っていて、僕と同世代の作家だと小野耕石さんは岡崎和郎さんを通じて知り合ったんですが、年が近い者同士、色々喋るうちに何かを共有していたりとか自然に展覧会へと繋がっていきました。それに至るまでに5年かかっていますけどね。いきなり、この人とやろう! じゃない。来年、この時期に展示やろうってスピード感では作れないですね。そこは時代のペースとは離れちゃっています。
横田さんのアンテナに引っかかる同世代のアーティストはいますか? また、それはなぜだと思いますか?
気になるアーティストは沢山いますよ。とても気になって展覧会に何度も足を運んだり注意深く見て反芻しているうちに、やっぱりお役に立てないかもしれないと悩んだり。インプットは興味があるので色々、見にいきますよ。調べるタイプですしね。良いざわつきって言うんですかね? いい音楽を聞いたときに鳥肌がたつ感覚ってあるじゃないですか? そこでなんでだろうと考えてしまいますね。そういうザラザラとした感覚がある作品を見ると嬉しいですよね。
ギャラリーってどんな場所ですか?
外とのつながりは不可欠なので、ありとあらゆることとは繋がっていますね。ギャラリーは開かれた場所だと思っていますよ。作家やコレクター、研究者、本当に色々な人が出入りするから、開かれるという意味での公共性みたいな、ギャラリーは、ただの展示空間じゃなくて、一つのハブというか「場」としていろんな関係とコミットしていなくてはいけないと思います。閉じているんじゃなくて開かれている。作品は社会というものと常に繋がっていると信じているので、そこはどう意識しているとかは言えないけれども、確実にそういうものであると考えています。
新型コロナ禍で自粛を余儀なくされた期間に他のギャラリーとの会議や作家と会話など、コミュニケーションはありましたか?
結局、今までの方法や機会が奪われているので、どうしようかと考えましたよね。色々な国ごとに状況が違うのでZoomやFaceTimeを通じて情報交換みたいなこともしましたが、作家はこういうときだからこそどういう表現をしようかと熱が入っているような様子で頼もしかったです。ギャラリーとしては、ここまで世界中で停止していることは初めてなので、皆、どうしたら良いのかは解らないけど、何か少しでも動きをつけたいなということは聞きましたかね。海外の美術館からは、過去に収集した作品についてリサーチがあって、そのことで彼らの代わりに作家にインタビューしたり。美術館側にもこれはどういうものなのか正しい情報を提供しないといけないので、そういうことをやっていて自粛期間にもいろいろと忙しかったですね。
横田茂ギャラリーは作家と寄り添いながら歩んでいくギャラリーですが、それをどのように感じていますか?
父が40年のギャラリー経営で培ってきた考えをベースにしているので、今の時代にあう方法を僕は模索しなくてはいけません。父がギャラリーを開く前に見ていた60年代70年代の画廊の在り方、アートビジネスという言葉が盛んになった80年代、そしてアートマネジメントやアートフェアが盛んになった90年代以降、だけどこのコロナの時代には、新しい生活様式じゃないですけど、違う画廊の在り方が求められるかもしれませんね。在り方は変わっても、作家に寄り添って、役に立つ画廊でありたいとは思います。
日本の美術館の良い部分、悪い部分で思うことはありますか?
幸いなことに日本は色々な県ごとに美術館があり、こんなにもバラエティーに富んだ色々な作品が入っているのは本当に凄いことだと思いますよ。一つの国のなかで。
何が悪いとかではないですけど、展覧会で集客しなきゃいけないっていうのはあって、どうしても海外の有名美術館のコレクション展の巡回とか、話題性のある企画になってくるんですが、今後はコロナの影響で海外から作品を借りにくくなる状況もあると聞いていますので、美術館のコレクションを、たとえそれが地味な内容でもきちんと紹介する常設展に力を入れていくようになるのではないでしょうか? それは逆に良いことですよね。コレクションのある美術館が強いのだという話は耳にしたことがあります。
アートって売れるんですか?
究極的なことを言うと作品を売ることはこんなに難しいんだなぁって思いますよね(笑)それでも動かさなくてはいけないんですが。会期中に作品が全て売れた万歳! みたいなことは経験ないですよ。すごく長いスパンで、何年も前にやったことが実を結ぶこともあるので、やっぱり長い時間が必要になってくるんですよね。
個人の方で、どうしても欲しいけど手が届かない、って場合でもそんなに気に入っていただけたのなら何とかその人に届くように僕らもできるだけ頑張る。もちろん限界はありますけど。あと、美術館が作品購入することだってあります。
東京パブリッシングハウスが残してきた功績は何だと思いますか?
作家の仕事がきちんと継続して残っていくことだと思います。作家を紹介し続けていること。
横田さんの仕事での喜びって何ですか?
作品に触れるのも楽しいし作家と話すことも嬉しい。喜びは沢山ありますよ。いちばん嬉しいのは、作品をどなたかにすごく喜んで持っていってもらえるのが嬉しい。時間がかかって持っていってもらえると尚更、嬉しいですよね。また作家が展示を気に入ってくれたりすることも嬉しいです。
将来の展望をお聞かせください。
今のコロナや2011年の地震のときも自分のやっている仕事の意味は何だろうと考えたことはあります。物理的に人の助けにならないんだろうと考えたりしましたが、美術の役割って、きっと実際、そういうことではないんでしょうね。どんな状況でも表現があって、それが残っていく。表現方法そのものは様々な時代背景で変わっても、人の営みのある上で無くなってきたことがないんじゃないでしょうか? どうしても衣食住が重んじられるけれども、それと同じくらい表現されたものが手元に持っている感覚は昔から変わらないですよね。どんな状況でも美術は無くならないと思うんですよね。ただその在り方、問われる意味、存在していく形はその時代で変わると思います。Hi ArtだとかLow Artだとかそんな話ではなくて、そして今は潮の変わり目のように感じたりしますね。色々な物事のスタンダードが崩れているときにクリティカルな力強いものが生まれてくるんじゃないかと思うので、今は不安定な世相ですけど、もしかしたら今こそ何かが生まれるタイミングなのではないかと不謹慎な意味ではなく期待しますよね。
美術史なり産業史なり、歴史を勉強して思うのは、やっぱり歴史は繰り返しているなってことです。100年前にはスペイン風邪が流行って、いろんなアーティストが亡くなってしまったんですよね、病気にかかって。でも、その人たちが作っていた作品の強さは今見ても迫るものがありますし、戦争があって世界的に色々な不安な状況があったんですが、必ずその傍らには強いメッセージを持った表現が必ずありました。そして、それが今でも残っています。今は情報や消費がすごい勢いで、その在り方は手垢に塗れているように思えても、実際には作品、表現が持っているものの意味は変わらないし、今だからこそ深く問われているのかもしれませんよね。それが何なのかも含めて今の仕事の立場から見れたら良いなとは思います。
自分の仕事は何だと思いますか?
父が同じ仕事をしていますし、それなりにギャラリーの歴史も長くなってきたので、父のやってきたことと比べられるじゃないけど色々と言われたり思うところはあるじゃないですか? そんなことを悩んだときにクリスチャンに話を聞いてもらったことがあるんです。彼が言ってくれたのは「まず最初にあなたがやることは変えることとか変化させる革新ではなくて、あなたのテイストをちょっと足すことなんだよ。そのためにやっていることを注意深く見て、あなた自身のテイストを探しなさいと。」ということでした。
あと、自分の仕事はシェアすることなんだなと思いますね。場所があってアーティストのやっている事とか、そこに来る人、自分の持ってることとかを共有して何かやることなんじゃないかな。
クリスチャンは教育者でもあって“way of life”ということを作家として教授として学生に教えているのだけど、彼が言ってくれた「どう生きるか?その方法の一つはシェアすることなんだよ」って、その言葉が今でも残っています。
これからは何かを抱え込むんじゃなくて、むしろそれをどうシェアして何をするのかという方法論が問われるような気がします。この感覚がないと続いていかないと思うんですよね。
僕の仕事は画廊で働いていることなんだけど、この場所で展示をしていると色々な人がアクセスして、みんなが持ち寄って何かが生まれる場所になれば良いなって願望はありますよね。
横田聡
1981年、神奈川県生まれ。
慶應義塾大学卒業後、瀬津雅陶堂に勤務。2016年より有限会社 東京パブリッシングハウス代表取締役。
横田茂ギャラリー、東京パブリッシングハウスで自主企画展示を行い、戦後から現代まで多様な表現にわたる作家活動を紹介している。
またアーティストブックやアーカイヴをベースとした写真集や記録集を出版している。
VIDEO
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藤木さんの出身はどちらですか?
広島生まれです。